戦後を生き抜いた祖母の決意

 3人の幼子を抱え、女ひとりで戦後を生き抜いてきた祖母の教えに加え、富永さんには今も忘れられない風景があるという。

「祖母のパンツです。物干しにね、祖母のツギハギだらけのパンツが干してあるんですよ。よその人に見せるものではないから、と穴が開いても布を継ぎ足してはき続けていましたね。子ども心にも“ばあちゃんは、ものを大事にしとんやな”と思っていた反面、さすがにパンツは買えるだろうと思ったのも事実。でもこれが祖母の決意だったのだと思うんです」

 戦後の混乱期には、家族や財産を失って困窮し、身体を売らざるを得ない女性も少なくなかった。そしておそらく彼女たちは、“女”として生きていくために、ツギハギだらけのパンツははいていなかっただろう。ひょっとしたら色とりどりの下着も身につけていたのではないか、そう富永さんは考える。

「あの時代では、その選択も正義だと思います。誰も責められません。かたや祖母は、商売と子育てに振り切った。それが綿のツギハギだらけのパンツだったのだと思います」

 貧困から抜け出すには、誰からも奪われることのない資格を身につけて自立をするしかない。富永さんにとって、医師になることは、いわば生きるための手段でもあった。

「豊かな生活は、選択肢があることだと思ってました。ピンクの口紅もいいけど、濃いローズだって紫色だって選べる、それが豊かさ。よく“自分で選んだことだから”と言う人もいますが、実は違う。選択肢がない人だっている。私も背水の陣から始まったので、それはよくわかります」

 貧しさとは、親の経済力、家柄、経済状況……人は自分が生まれてくる環境を選べない。最近では「親ガチャ」という言葉も聞かれる。

「もし自分がすでに“親ガチャ”で負けているなら、負けた土俵にずっといてはダメ」 

 富永さんは、力説する。

「私の場合、自分の武器は、テストの点数やまじめさだった。まじめといってもいろいろあるけど、“やりきる力”かな。やると言ったらやる。そしてニッチだけど自分が勝てそうな土俵を狙う。たとえ小さくても、まだみんなが目をつけていなくて、自分にも勝算がありそうな土俵を選び抜くんです」

 徳島大学医学部在学中にも富永さんらしいエピソードがある。解剖学の勉強で、文字どおり寝食を忘れて解剖に打ち込んだ。「1日の食事はおにぎり2個」という生活を半年間続けていたところ、脚気になってしまったという。

 目的のために削ぎ落とし、勉学に没頭する富永さんにまた新たな壁が立ちふさがる。

 '93年1月、卒業を控えた医学部6年生の1月、当初の希望どおり皮膚科への入局願いを提出したものの、教授からこう告げられた。

「君は、女だから、うちには入れないよ」

 寝耳に水だった。すかさず1つ上の学年には3人も女性の研修医がいることを必死で訴えた。しかし彼女たちは開業医の娘、なんの後ろ盾もない『漁師の娘』である富永さんは、「医局人事の足手まとい」だと伝えられたという。女性であることを理由に皮膚科入局を断られたのだ。

診察室の富永さん。バランスボールに座って診察するスタイル 写真/北村史成
診察室の富永さん。バランスボールに座って診察するスタイル 写真/北村史成
【写真】動画内で使用した「まるで医学書」のような高いクオリティーのスケッチ

 '18年には、東京医科大学が入試の点数を操作し、女子受験生らの合格者数を抑えていた問題が取り沙汰されたが、これは、その四半世紀前の出来事である。

「私の6年間を返してくれよ!と叫びたかった」

 経済的格差の次に立ちはだかる性差別の壁。悔し涙があふれた。失意の中、就職活動を続け、なかば成り行きでたどり着いたのが、麻酔科だったのだ。