段取りのほとんどを自力で
『サチコさんのドレス』刊行後、著者たちが登壇するイベントも開催された。'22年を間近に控え、緊急事態宣言が解かれて、自粛一辺倒だったムードも全国的に潮目が変わり、誰もがコロナ禍との折り合いをつけようとしていたころのことだ。イベント後の打ち上げで一同が集まった日を、桜木は振り返る。
「なにより驚いたのは、そらさんがイベントで照明や音響の操作、司会進行の段取りのほとんどを自分で手がけていたこと。最初は彼女の美しさに見惚れていましたが、会うたびに頼もしい一面に気づかされる。
打ち上げのときも、そらさんの話術でそこにいるみんながいい気分になり、私は酒量が増えました(笑)。なのに、本人は解散後さっと姿を消してしまう。底知れぬパワーと、しなやかさがある人です」
車イスの人も楽しめるユニバーサルドレスの活動は、道内にとどまらない。今年5月、東京・錦糸町の一角で『インクルーシブパレード2022』が開催された。石切山も同イベントに参加し、街を練り歩いた。石切山が話す。
「私は20年近く前から、そらちゃんを知っているんです。そのころ私が関わっていた北海道のファッション誌で、そらちゃんはイラストの仕事を始めていました。まだ駆け出しだったけど、すごくかわいい子がいるなと思っていました。
当時から一生懸命に取り組むタイプでしたね。やっぱり、すごく努力したんだと思います。それから彼女が出演する旅番組でスタイリングを担当するようになり、今回の絵本もあり、すてきなご縁が続いています」
'97年には北海道拓殖銀行が経営破綻に見舞われ、'07年は夕張市が財政再建団体として指定された。北海道経済は、今もその地続きにある。地方自治体としての北海道は、クリアすべき課題があまりに多すぎるが、道民にはフロンティア精神に基づくパワーが備わっているのだろう。
北海道日本ハムファイターズの招致や、TEAM NACSの大泉洋らが全国区へと人気を拡大するという出来事も、北海道を活気づけている。
一方で、北海道出身のタレントやアーティスト、地域密着型で活動する人たちをあたたかく見守る風土も残る。これほど“地元愛”が明確な自治体も珍しいのではないか。『サチコさんのドレス』も道内の書店で愛されているようだ。北海道新聞社の加藤敦が次のように話す。
「札幌市内では、刊行から半年以上を過ぎた今でも、大きな面で陳列してくれる書店があります。そらさんが“絵本大国北海道”というキャッチフレーズを使って活動されていること、さらには読み聞かせや映像配信といった絵本作家の枠にとどまらない活動が、道民の幅広い層の心に届き、本書を支えてくれているのだと思います」
そらと、とある書籍の企画を考案したことがある。彼女のポジティブな考え方を1冊にまとめられないかと思案し、何度か打ち合わせを重ねた。
あいにく企画はもう少し練り直しが必要で、今も水面下で計画中なのだが、そらが企画立案当初、サンプルとして描いた絵に《おひとりさま43さい》と添えられていたことがどうにも忘れられない。
どんな言葉をかけるのがベストなのか少々悩んだが、本人はなんの気なしに「おひとりさま」を楽しんでいるらしい。
結婚や出産といった、女性の幸せとして安易に持ち出されがちなライフイベントについて、彼女は否定も肯定もしないが、一般化された古風な志向と、そらは距離を置いている気がする。ただ、この手の話をするときのそらは、少しニヤつきながら、生き生きとし始めるから不思議だ。
そんな話題にならなくても、彼女は常に笑顔だ。知り合った当初から、フレンドリーだった。一方で、そう簡単には相手に胸の内を明かさないという、ドライな部分も矛盾なく持ち合わせている彼女に、絵本作家としてだけでなく、取材対象としての関心を抱いた。
私たちは取材を通じて交流を深めているのであり、あくまで「取材者」と「取材対象」の関係性を端緒としていることは自明だ。
けれども、彼女の発する人懐こさは、筆者が「ライターとしてあるべき姿」を優先するあまり、勝手に作り出していた壁をたやすく溶かしてしまう。なおかつ、彼女の大切な部分はきわめて強固な“個”で守られている。
石切山も、彼女についてこう語る。
「本当は、常にひとりでいたい人なのでしょうね。ずっと机に向かって絵を描いていたいんだと思う。
人付き合いのよさ、他人を大切にするところも、そらちゃんの本質だと思うけど、思いやることで疲れてしまうときもあるんじゃないかな。自分と向き合っていくことが好きでなければ、あれだけ絵を描き続けることはできないと思います」
『そら』というペンネームは、空に浮かぶ雲を見るのが好きな子どもだったことからつけた。文字どおり空想好きな子どもだった。テレビのまねごとをするときは、段ボールで手製の疑似テレビを作り、その中に入って演じた。ひとりでモノを作ることで、自分の世界が満たされたという。
絵本作家になりたいと思ったのは、3歳のころの思い出が影響している。ある日、父親が画用紙に色鉛筆で花の絵を描いた。君子欄だったか、シクラメンだったか、今は記憶がおぼろげだ。白い画用紙にみるみる花が浮かび出てくることに感動した。
「人の手って、なんて美しいものを作り出せるんだろう」
絵を描くことを夢見るようになった。
もうひとつのきっかけが、母親に読んでもらった絵本。毎晩、姉と弟とそらの3人は、母に絵本を読んでもらって夜を過ごした。『せんたくかあちゃん』『かもさんおとおり』『えんにち』『こすずめのぼうけん』。ワクワクして眠れなかった。
絵本の表紙を見ていると、《さく》《え》のところに人の名前が書かれている。どういうことかわからなくて、母に尋ねた。
「絵を描いた人と、お話を考えた人の名前が載っているのよ」
幼いそらは驚愕した。この世に、そんな存在がいたことに。彼らが物語を生み出して、自分を感動させていることに。「絵本作家になりたい!」。3歳で将来の目標が決まった。