都会にはなじめなかった

 札幌市内の私立女子中学校に入学し、中高一貫で6年間を過ごす。本人いわく「陰キャ」な女子高生を経て、調理師の専門学校へ進む。「飾り切り」で優秀賞を受賞するなど持ち前の器用さを発揮するも、退学。絵本作家を目指して、独学で絵筆をとった。

「といっても簡単には食べていけませんでした。生きていかなければならないから、アルバイトに明け暮れて。飲食店、バーの店員、キャンペーンガールもやりました。イラストレーターの肩書で名刺を作って、いろんなところで配っていましたが、なかなかうまくいかず……。

 方向音痴なのに宅配便のアルバイトもやりましたね。いろんな仕事をしたことで、心身共に鍛えられたのは間違いありません」

 生まれも育ちも札幌だが、20代前半のころ、横浜で半年間だけ暮らしたことがある。全国区でイラストの仕事をするためには都心で活動したほうがいいと思ったからだ。しかし、慣れない場所になじめなかった。

 出版社に挨拶回りをしようにも、元来の方向音痴が発動して、なかなかアポイント先にたどり着けない。空気も合わない。早々に札幌に戻った。

 イラストレーターとして仕事を増やす契機は、地元の雑誌だった。石切山と出会うきっかけにもなったファッション誌『FAMIEE』(現在は廃刊)でモデルを務め、イラストの仕事も依頼されるようになる。それでもバイト生活は続いたが、ここでそらは自分の武器を手に入れる。

「ひとつの雑誌で、複数のコーナーに載せるイラストの仕事をもらうようになったんです。そのとき、別々の人が描いているように見せるため、編集部からは違うタッチのイラストを要求されました」

 イラストレーターとしてのそらの絵に、『サチコさんのドレス』のような水彩画はそれほど多くない。ほとんどの作品をデジタルで描き、提出する。くっきりとした絵柄からアンニュイなものまで幅広いのは、このときの依頼が影響している。

 広告案件でクライアントの目的を考慮し、さまざまなアプローチの絵をプレゼンできることも強みになっている。

「北海道でお仕事をするとなると、ひとつのタッチでたくさんやることはできないんですよ。本来は、ひとつだけある自分の絵柄で勝負するのだと思いますけど、東京に比べて、仕事量そのものが少ない中で生き抜くにあたって、そうするしかなかった部分はありますね。

 独学だったので、あらゆる描き方を試していました。だから、描き分けるのは私にとって普通のことだったんです」

 好循環で仕事をできるようになったのは、30歳を過ぎてから。バイト生活から抜け出し、自分の名前で仕事をとれるようになったのもそのころ。そうしてキュンちゃんを生み出し、今も育て続けている。

公園の大きな木に触れるそら。はだしになり、森や木とつながる『アーシング』をすることも好きだという。(撮影/渡邉智裕)
公園の大きな木に触れるそら。はだしになり、森や木とつながる『アーシング』をすることも好きだという。(撮影/渡邉智裕)
【写真】そらが自宅で保管している原画、色とりどりの中に愛犬ホリーも