努力と運でつかんだアナウンサーの道
アナウンサーという仕事は笠井さんの天職かもしれない。
人前でしゃべることの喜びを知った原体験は、小学4年生のとき。子ども祭りでステージの進行を任され、大人顔負けの司会が評判になる。マイクの前でしゃべりたい一心で、学校では放送委員会に入り、児童会長にもなった。
「校庭に集まった全校児童の前であいさつをすると、マイクを通した自分の声が校舎にはね返って聞こえてくるんですよ。それがもう、快感で」
中学校でも放送委員会で活動し、生徒会長を務めた。高校では昼に流す番組制作に携わり、文化祭でクイズ大会の司会をやると会場は人であふれた。進路指導の担任からは、こんな言葉を掛けられた。
「信輔は大学に行くよりもテレビに出ることを考えたほうがいい」
笠井さんのアナウンサーへの憧れを、明確な“目標”へと変えたひと言だった。
「自分の夢を本気で応援してくれる大人がいるんだと思えたことが本当にうれしかった。
だから卒業アルバムの寄せ書きには、〈俺を忘れそうになったらテレビを見てくれ〉って書いたんですよ(笑)」
問題は成績。担任からは「入れる大学はない」とキッパリ言われた。だが、テレビ局は大卒者しか採用していない。ならば、勉強するしかない。
「浪人して、予備校では1人の友達もつくらず、バイトもせず、勉強だけの毎日。受験前の冬には母親から『もう勉強はしないでちょうだい』って泣きつかれたほどでした」
やるからにはとことんやる。それが笠井さんの性格。早稲田大学商学部に合格すると、放送研究会の門を叩(たた)いた。
アナウンス学校にも通った。そこがますみさんとのファーストコンタクトの場。大学4年生になり、在京キー局のアナウンス講習会でますみさんと再会した笠井さんは、「一緒に頑張ろうよ」と声を掛けた。ここから2人の交際が始まった。
しかし、在京キー局の壁は厚い。日本テレビ、テレビ朝日、共に最終面接の前で落とされると、アナウンス学校の教務主任に呼び出された。
「笠井さんのノリは現場では評価されますが、上層部は保守的です。最終的に評価されるのはマジメな人材。残ったフジテレビでは積極的な発言は控えてください」
人が変わったようにおとなしくしていたフジテレビアナウンサーの試験は順調に進み、あとは最終面接のみ。今度もおとなしくしていれば採用されるだろうか?迷っていると、教務主任から再び連絡が。アナウンス学校OBの局アナが、電話で相談に乗ってくれるという。
「迷いを打ち明けると、『自分にウソをついて落ちるのと、自分の本気を出して落ちるのと、どっちが納得できるか?落ちたことを教務主任のせいにしたくないなら自分で選びなさい』と。そのアドバイスで吹っ切れて、もう最終面接はスパークですよ(笑)」
最終面接に臨んだ学生は3名。採用枠は2つ。そこにすべり込めたのは実力ではなかったと笠井さんは言う。
「実は僕の評価は3番目だったんです。ところが、上の2人が非常にマジメで似ていたから、同じタイプは2人いらないということで僕が繰り上がった。人事担当者から、『運が良かったな』と言われましたけれども、本当にそうかもしれない。
上司からはマジメな性格の『塩原(恒夫アナ)を見習え!』って散々怒られたし、塩原からも『おまえが同期で良かった。オレは立っているだけでホメられた』って感謝されましたからね(笑)」