決して甘くはない裁判にかける思い
話を冒頭の10月3日、東京地方裁判所に戻そう。
この日、海渡弁護士らが新たに提出した意見書は、こんな内容で構成されている。
《戸籍受付帳には、彼の親と他人の情報が混じっている。彼の親がわからない限り、他人の情報と分けて取り出すことはできない。ならば受付帳に記されている情報全体が、江蔵さんの個人情報であるといえる。江蔵さんには自分の個人情報を取得し、都に調査をしてもらう権利がある》
裁判の見通しは決して甘いものではない。海渡弁護士らは、個人情報保護法の専門家である三宅弘弁護士とともに考えたこの意見書で、個人情報保護法の分厚い壁を突き崩そうと意気込む。
公判後、江蔵さんが裁判にかける思いをこう話してくれた。
「誰でも間違いを犯したら訂正して謝らなければならない。今回、間違いを犯したのは都であり、その情報を管理しているのは墨田区です。であれば、都や区が間違いを正さないのはおかしい。
行政は“(取り違えられた)相手に迷惑がかかる”と言うけれど、迷惑か迷惑じゃないかは調べてもらわなければわかりません。
僕は親父や弟を見ていますから、相手が僕に“会いたくない”と言ったとしても驚きません。もしも両親や相手の家族が会いたくないと言ったら、それ以上の迷惑をかけるつもりはありません。でも今の状態では、それすらもわからない」
前出・長沖さんによれば、スウェーデンやイギリスなどでは、生殖補助医療で生まれた子どもの出自を知る権利が法的に保障されている。それでも理解が浸透しているとは言い難く、多くの場合、子どもに「本当の親」を知らせることに躊躇(ちゅうちょ)があるという。
「ただ、子ども自身が出生に第三者が関わっていたことを知っていれば、(精子や卵子の)提供者に会う・会わないという選択ができます。
まずは出自を知る権利について、法や制度で保障することが重要です。AIDや養子縁組の子どもにも影響することから江蔵さんの裁判の行方は注目されています」(長沖さん)
さて、ここまで読んでくれた読者の中には、“本当の親を知りたいという気持ちは十分に理解できる。老いた母親にも、実の息子に会わせてあげたいものだ”と、そう感じた人がいるかもしれない。
それなら、あなたにもできることが実はある。この特集記事に掲載された江蔵さんの写真を、まずはじっくりと眺めてほしい。あなたの両親、きょうだい、いとこや親族に、よく似た面影の人はいないだろうか。いま一度、振り返ってみてほしいのだ。
あなたのその小さな気づきが、裁判や立法化とはまた違う、新たな突破口となるかもしれないのだから──。
取材・文/千羽ひとみ(せんば・ひとみ )●フリーライター。神奈川県横浜市生まれ。企業広告のコピーライティング出身で、人物ドキュメントから料理、実用まで幅広い分野を手がける。新著の『キャラ絵で学ぶ! 徳川家康図鑑』(ともに共著)ほか、著書多数。