ガジュマルの森が自分の庭の“自然児”
1993年にユネスコの世界遺産に登録された屋久島。
1960年代後半、サトシという名の少年が島にいた。そう、後のGETTAMANである。
毎日、少年は水平線を眺めながら、潮騒の音を聞き、引き潮を追っては魚と貝を捕まえて、満ち潮に追われて陸に上がる。すぐ横には、ガジュマルの森があって、その後ろには山々が聳(そび)え立っていた。
少年は、たったひとりでガジュマルの木のてっぺんにツリーハウスを作り、そこに木のベッドを設(しつら)え、自分だけの秘密基地にしていた。
「そこに寝っ転がって、水平線を眺めながら雲に手が届くような感じで、木と木を歩いて渡れるような状態にしてました」
幼稚園に通うようになっても、サトシ少年のひとり遊びは続いた。
「狭い空間に押し込められるのが嫌で、幼稚園のバスで帰宅する時も、自分のガジュマルの森が見えてきたら、走っているバスの窓から飛び降りる。当然、ひっくり返るんだけど、それでも、何回もうまく着地するまでチャレンジするような子どもでしたね」
小学校に上がっても、サトシ少年は勉強らしい勉強をすることもなく、教科書を開くことさえなかった。
「ゲームとか、子どもが好きそうなことに興味を示さずに、自然と常に触れていて、木をノコギリで切ってみたり、蜘蛛(くも)を捕まえてみたり……」
体育館で隠れんぼをすると、普通なら跳び箱の中に隠れたりするのだが、サトシ少年の場合は違っていた。
「天井裏に隠れて、そこでじーっと我慢してるんですよ。すると誰にも見つかることはないんですね」
そのまま昼休みが終わって掃除の時間になってもサトシ少年は天井裏に隠れていた。
「そしたら、あーおしっこしたいな、と思った。でももっとサボっていたいから、天井からステージに向かっておしっこをしたんです、すると、女子生徒が“先生、雨漏りしてる!”となって、
すると女性の先生が“あれ?これ雨漏りじゃないよ。下りてきなさい!”って。私は捕まって職員室に連れていかれた。そしてバケツを持たされてずーっとHRの時間まで廊下に立たされた。背中には紙に『しょんべんたれ小僧』と書いたのを貼られて。もう一事が万事そうでした」
5人家族。父親は港の設計士で母親は保育園の保育士。弟と妹は塾に通っていたが、サトシ少年は中学生になっても、相変わらず、屋久島の自然の中にひきこもっていた。
勉強はしない。部活には入らない。授業が終わったらすぐに家に戻ってカバンを友達に預け、暗くなるまで自然とともに暮らすような毎日だった。
「今思うと、屋久島の自然の中にひきこもりながら、空から鳥の目で俯瞰(ふかん)して眺めたり、大地から虫の目で物事を覗(のぞ)き込んだりして、人間は自然の中の一部として暮らしているんだな、ということが私の心の奥底に植え込まれたみたいな気がするんですね」
しかしある時、転機が訪れる。サトシ本人も「何かひとつテーマを決めなきゃいけない」と思ったのだ。
「で、人生を生きていくうえで、大きな意義と小さな意義ってあると思うんだけど、自分にとっての小さな意義をつくろうと思ったんです」
それはトレーニングだった。毎日、家の近所の一周1・5キロメートルくらいの農道を1時間くらい走り、その後スクワットや腕立て伏せ、ダッシュ、とルーティンを決めたのだ。
「マラソン大会で優勝したいとか、部活でうまくなりたいという目標や目的は一切なく、とりあえず自分に負けないようにしようと、自分との約束をそこで交わしたんですね」
そのトレーニングは、雨の日も風の日も毎日休むことはなかった。
島の高校に通うようになっても、ずーっと釣りをしたりする日々。そんな時、誰かが囁(ささや)いたのだ。
「おまえ、このまま終わっちゃうぞ。屋久島と一緒に終わっちゃうのか──」
そこから、「島を出なきゃ」という思いが芽生え、初めて勉強をするようになった。
高校3年生の5月のことだ。
「そしたら、学年で3番目くらいになったんですよ。字も書けない、書き順もわからない、読めない。でも、暗記だけはすごいんですね。記憶力だけは。“どうせカンニングでもしたんだろ”って言われて誰も寄ってこないんだけど気にもしなかった」
そして鹿児島市内の大学に入学する。
「大学と下宿の半径100メートルくらいの中で過ごしていました。それでも毎日が楽しかった。トレーニングは続けてましたが、それ以外は自分の部屋にいた。今度は本当の意味でのひきこもり(笑)。
ただやる時だけはやろうと思って、試験の時だけは、きちんと1週間前からみんなのノートをコピーして、それを暗記して、とやってたら今度は特待生になったんですね」
そして、中学高校の社会の教師の資格も取った。この時は、教師になろうと思っていたと言う。