自己主張を叩き込まれた海外生活
森永さんは東京都出身。好奇心旺盛で、興味が湧くと、のめり込む性分は子どものころから変わらない。最初にハマったのは、おもちゃのミニカー。毎日新聞の記者だった父親の留学・異動に伴い、欧米で暮らした少年時代の心のよりどころだった。
「オーストリアのウィーンで地元の小学校に転入したため、ドイツ語も話せず、現地の子どもたちとコミュニケーションが取れない。いじめられ、ひきこもり状態になっていました。それを案じた父親がミニカーを買ってくれたのがきっかけです」
小学1年生のころにアメリカ・ボストン、4年時にはウィーン、5年時にスイス・ジュネーブと転々として過ごした。その後、日本へ帰国したのだが、森永さんは当時を振り返り「最大の挫折体験」と苦笑する。
「アメリカでは日本じゃ食えないアイスクリームやステーキを食べすぎて、デブになってしまったんです。デブで運動能力が低くて、日本語がしゃべれない。格好のいじめのターゲットでしょう。中1までいじめられていましたね」
日本での生活にも慣れたころ、中学生になった森永さんはクラスで1番の成績に。いじめられることはなくなったが、毎日のように廊下に立たされていたという。
「なぜって、先生の言うことを聞かないから。それまで海外にいたこともあって、私は従順じゃなかったんです。欧米では、たとえ小学生であってもただ黙って授業を聞いているやつは、価値がないとされるんですね。わからないことは聞かなきゃならない。その考えが染みついていました。だから、知らなかったら聞くし、おかしいと思ったら“それはおかしい”と言う」
相手が教師や大人であっても、森永さんは態度を変えなかった。
「例えば、数学で『ピタゴラスの定理』を証明するときに僕だけが“そのやり方は変です”と言って、教師と戦っていました。試験の答案用紙をすんなり受け取った記憶は1回もない。全部、採点が正しいかどうか食ってかかっていましたから。今思うと嫌われて当然なんですけどね(笑)」
テレビでも口角泡を飛ばしながら自説を主張し、おかしいことはおかしいと主張する。森永さんのスタイルは、このころから定まっていたのだ。
元・特攻隊の父が教えた戦争の現実
もうひとつ、森永さんの人格形成に大きな影響を与えたことがあった。父親である京一さんの戦争体験だ。
「父親が特攻隊員だったということが大きかったですね」
太平洋戦争中、大学生だった京一さんは予備学生として海軍に召集されていた。
「人間魚雷の訓練をしていて、終戦があと2週間遅れたら、敵機へ突っ込んでいたそうです。父は広島の潜水艦で訓練を受けていました。訓練が終わり海面へ浮上して、ハッチを開けた瞬間、目の前で原爆が爆発したそうです」
森永さんが40代のころだ。戦争特集のテレビ番組に出演した際、「原爆が上空100数十メートルで破裂する」と聞いて、森永さんはとっさに「え、地上で爆発したんじゃないんですか?」と尋ねた。その放送を偶然見ていた京一さんは、帰宅した森永さんにこう言った。
「おまえ、そんなことも知らないのか」
「なんで親父、知ってんの?」
「俺は目の前で見たから」
森永さんはこのとき、父親が被爆者だと初めて知った。
「父は被爆した事実を誰にも言えなかったんです。被爆者というだけで結婚できない差別があったから、ずっと母を何十年もだまし続けなければならなかった。原爆の被害は数十万人の命が奪われただけでなく、実は延々と、さまざまな形で続いているんです」