事務所の仲間とともに、かつての仲間のために作った新曲
ビーイングは、音楽制作会社・レコード会社およびアーティストマネージメントオフィスである。'80年代、LOUDNESS、TUBE、B'zがデビュー。'90年代初期からは、ZARD、WANDS、DEEN、T-BORAN、そして大黒摩季らが次々とデビューして大ヒットを記録した。
所属アーティストが“ビーイング系”などと呼ばれたこともあった。そんな古巣に戻ってきた大黒は、改めて音楽作りに没頭したと語る。
「戻ってきてすぐは少々気を使っていたんだけど、5、6年経ったら30年ずっといたような気になっちゃって(苦笑)。音楽がデジタル主流の世界になり、この業界に入る若い人が少なくなっています。
私には、クリエーターにお金を使えなくなったらクリエイティブは死ぬ、みたいな昭和の心情があって、どうしても“ここはやらねばならぬ”ということを曲げられない。だから最後の最後まで、ギリギリまで全神経使って作り上げる。
もはや“リスクは自分で取りますから”もう縮めるばかりは止めましょう!という感じで取り組みました(笑)」
大黒がデビューしてからの30年、音楽業界を取り囲む環境は大きく変わった。現在では完全なデジタルに移りつつある。
「しかもサブスクをスマホで聴くようになったでしょ?実際問題、音源の再現領域が広がったというのは確かにある。データの処理も早くなったしね。ならば郷に入っては郷に従うべきではあるけれど、でも只それだけだとプライドが許しませんと。
これまでの作品も、まるで出来上がったケーキにチョコレートをかけ直したようなのじゃ嫌なんですよ。だから、それはそれで平たいデジタル音にアナログ時代の音像を加えるにはどうしたら良いか?!とかエンジニアと研究開発したりと今回ほど制作にのめり込んだことはないと思いますね」
新曲の中に『君に届け』というタイトルの曲がある。
「New Songs盤は、いろんなタイプの楽曲を入れてバラエティに仕上がった。けれど、何かも一つ手応えが足りないんじゃないのと思った。そこで、この曲を最後の最後に急遽書き下ろしたんですね。
ビーイングによるビーイングらしい曲にしようと、ビーイングの、昔ながらの精鋭たちで作りました。私がもし30周年で死んじゃっても後悔がないようにね(笑)。
そして、ZARDの泉水ちゃんが生きていたら歌って欲しいなと。昔、彼女が「いつか私が詞を書いて、摩季ちゃんが曲書いて、二人で歌うライブやりたいね!」と言ってた約束。遅くなったけど守りたくて。
だから彼女に楽曲提供するつもりで作った曲。彼女が歌ったら、もっと甘酸っぱい感じになったと思うんだけど、私なのでちょっと塩辛くなったところがあるけど(苦笑)」
ZARDは、大黒と同時期に活躍したボーカルの坂井泉水を中心にしたユニットだ。『負けないで』や『揺れる想い』、『マイフレンド』などの大ヒットで知られる。坂井は、2000年以降、子宮筋腫などの病気を患っていたが、闘病中の2007年にこの世を去った。
大黒は、『揺れる想い』『負けないで』はじめ多くの曲にコーラスで参加。坂井とも親しく、坂井の音楽葬で大黒が人目を憚らず号泣したほどだった。
実像が見えない、昭和の「初音ミク」
大黒は、「謎のカリスマ歌姫」というような形容をされることが多い。デビューしてから数年は大ヒットを連発しながら、メディアなどへの露出はほとんどなく、ライブ活動もなかったためだ。
そのため、「大黒は1人じゃない。歌手担当、写真で顔を出すモデル担当、作詞・作曲担当とそれぞれ3人いる」とか「大黒摩季はコンピュータで作られたもので実在しない」などという都市伝説がまことしやかに語られたのだ。本人が爆笑しながら言う。
「考えてみれば初音ミクの走りみたいものかもね(笑)。ボーカロイド。昭和の初音ミク(笑)」
実際、当時の彼女はほとんど外に出ていない。作詞作曲からレコーディング、何から何まで1人でやっていた上に、3か月に1枚作品を出していたので、時間的にもメディアに出る余裕はほとんどなかったのだ。
「自分で書いて自分で歌ってダビングして…ですからね。はい、出来ました!そして、歌・コーラスやってる間にまた次の発注きました!って(苦笑)。
私、1年365日のうち、364日スタジオに入っていたのが3年間という記録があるんですよ(笑)。休みは元旦だけ。だから、カリスマなんて言われてもまったくピンとこなかった」