演じる面白さに開眼。主演2作目は──
「スターは三船、役者はのり平」といわれていた当時の芝居の世界。希代の舞台人・三木のり平さんの座長公演からお呼びがかかった。役は『おれは天一坊』の山内伊賀亮(やまのうちいがのすけ)。
寺田は、すでにのり平さんと何度か共演していた。'70年に放送されたNHKの『男は度胸』には、徳川幕府転覆を謀る天一坊事件の場面があり、寺田は黒幕の1人である伊賀亮を演じた。それを脇で見ていたのり平さんが、自分が主役の天一坊を演じる舞台に寺田を呼んだのは、役者として持っている力を認めた証しだった。
「のり平さんとはちゃんと話をしたことがなくて、映画で親子役として初共演したときも、寺田です、寺田です、寺田ですって3回言って、ようやく返事をしてくれた。気難しいことで有名な人だから、どうしようかなと思ってチョーさん(古今亭志ん朝)に相談したの」
落語家の志ん朝さんを芝居の世界に引っ張り込んだのはのり平さんだった。直弟子の志ん朝さんは寺田の迷いを吹き飛ばさんとまくし立てた。
「農なら先生と合う、幕内のことは全部アタシが面倒見るから絶対におやんなさい。断ったりしたら縁を切るよ!」
親友の太鼓判で出演を決めた。ところが、本番3日前になっても台本は半分も上がってこない。できている台本を読むと、伊賀亮は天一坊をしのぐ大役。稽古もできず、またふてくされそうになると、のり平さんは言った。
「舞台で演(や)りながら教えるよ」
初日。寺田の耳元で「客はスイカだと思えばいい」と、のり平さんが囁(ささや)いた。
「古典的な励まし方をされて舞台へ上がると、のり平さんは芝居をしながらオレの位置や身体の動かし方を教えてくれて、(わかったかい?)という目をする。手取り足取り、まさにプレーイングマネージャーだった。この人が役者としてのオレの師匠だと、そのとき思ったね」
演じることの面白さを知り、寺田の活躍の場は広がる。'81年、相米慎二監督の『セーラー服と機関銃』に出演すると、以降の相米作品に欠かせない役者となる。相米組チーフ助監督だった桜美林大学教授(映画演出)の榎戸耕史さんは言う。
「台本ができると、寺田さんは自分のスケジュールでやれそうな役を、自分で選んでくれるんです。そんな出演依頼ができた役者さんはほかにはいませんでした」
'85年。『ラブホテル』の台本が上がり、榎戸さんは寺田に届けた。その場で読んだ寺田は、榎戸さんにこう告げた。
「オレが、村木をやる」
村木は主役。しかも作品は日活ロマンポルノ。榎戸さんが相米監督に伝えると、「おお、いいんじゃないか!」という返事。寺田にとって『肉弾』以来となる2本目の主演が決まった。
「あそこまでのハードコアは寺田さんも初めてだったと思いますが、心配なのは主演女優の速水典子さんのほうでした。ほぼ新人で、相米の演出に耐えられるような技量はまだなかった」(榎戸さん)
「相米監督の演出に泣かない女優はいない」といわれていた。簡単にOKは出ない。細かい演技指導もない。役者なら自分で考えろと、時に罵声も浴びせられる。だが、
「ビビっていた速水さんを寺田さんがリードし、カバーしたんです。撮影はハードで徹夜の連続でしたけれども、現場には一体感があり、進行は順調でした」(榎戸さん)
『ラブホテル』は'86年2月に開催されたヨコハマ映画祭で作品賞に選ばれ、寺田は主演男優賞を、速水も最優秀新人賞を受賞した。
ちょうどそのころ、寺田を「師」と仰いだ青年がいる。大学のサッカー部で将来を期待されながら、CMに映ったことがアマチュア規定に触れて試合に出られなくなった椎名桔平だ。
「サッカー部をやめて役者を志してはみたものの、何のあてもない中で悶々(もんもん)としていたときに、知人から寺田さんを紹介してもらい、付き人として撮影現場を経験させていただきました」(椎名さん)
しかし、寺田に「付き人」という感覚はなかった。
「インポッシブル・ドリームというサッカーチームをつくったときで、オレとしてはエースストライカーとして迎えたつもりだった。3年くらい一緒にいた後、オレから離れて桔平は売れたね(笑)」
師匠らしいことは何もしていないと言う。しかし、椎名は役者の道を進む中で、寺田との日々を思い出しては感謝していると話す。
「寺田さんの舞台の楽屋で支度のお手伝いをしていたら、ある日、机の上に何冊も本が積んであった。でも、読んでいる様子がない。その本は僕が夢を探せるように、わざわざ持ってきてくれたんですね。寺田さんが親交のある監督に頼んでくれ、小さな役でいくつか出演させていただきました。芝居がまったくできず、寺田さんには申し訳なかったのですが、インポッシブル・ドリームではそれなりに活躍できたと思っています(笑)」