夫婦で作り上げた百恵さんの黄金期

 百恵さんへの提供曲は、『横須賀ストーリー』(1976年)に始まり、最後は『さよならの向う側』(1980年)、まさに“詞先”の時代の産物。阿木&宇崎コンビの楽曲が抜擢された理由を聞いてみると、

実は僕らを指名したのは、百恵さん本人だと聞きました。彼女は自分からマネージャーに“あの人たちに作ってもらいたい”って言ってくれたらしいんですよ


「常にほかの人がやっていないことを追求してきた宇崎竜童。「飽きっぽいんだよ。新しいことをすぐやりたくなる」

「常にほかの人がやっていないことを追求してきた宇崎竜童。「飽きっぽいんだよ。新しいことをすぐやりたくなる」

【写真】ギターを持つ姿がカッコいい宇崎竜童

 始まりはアルバム『17才のテーマ』中の4曲についての依頼だった。しかし、そのうちの1曲だった『横須賀ストーリー』はアルバム曲から外され、後日シングルとして発売されると66万枚という大ヒットを記録。

 その2か月後には『横須賀ストーリー』というタイトルのアルバムが制作され、A面の楽曲すべてを阿木&宇崎コンビが手がけることに。

「横須賀は百恵さんが育った街。だから横須賀をテーマにした女の子の歌を作ってもいいよね、と阿木とプロデューサーと話したんです」

 百恵さんと仕事をするうちに、宇崎はその才能に驚いたという。

毎回、(曲の)主人公は違ってましたけど、僕らに作品のインスピレーションを与えてくれる見事な才能を持った人でしたね

 彼女は特に何も言わずに、ただ一生懸命歌うだけだったのだが、独特の振り付けやしぐさ、表情などは自分で拵えたものだという。

主人公になりきる。ああしようこうしようじゃなくて、セルフプロデュースが自然にできちゃう。いろいろな人が彼女の曲をカバーしているけど、僕らから見ていても、作品の世界観をちゃんと出しているのは百恵さんだけですね

 宇崎は、百恵さんの引退はどう思ったのだろう。

「“あれれ?” という驚きがまずいちばん。それと“ほっとした”という気持ちがありました。そのふたつが五分五分かな。もう作んなくていいんだ、というね(笑)。

 だって、レコード会社からは“次はもっと売れる曲”というリクエストが来ますから。これはプレッシャーですよ。で、レコード大賞を絶対獲るというのが目標。そういう気迫をレコード会社から感じるわけです

 あの当時、本当に注文が多かった、と苦笑いしながら宇崎はこう続ける。

やっとそのプレッシャーから解放されるという感覚でした。3か月に1曲、シングルを書いていたからね。曲がリリースされた次の日には、次の作品を考えなければいけない。それが4年半続いたんですから。さだまさしさんと谷村新司さんのおかげで、2回休憩がありましたけど(笑)

 これはさだまさしが提供した『秋桜(コスモス)』と谷村新司による『いい日旅立ち』のことである。それにしても名曲の数々はどんなふうにして誕生していったのか。

最初はレコード会社の人と、レコーディングのひと月前くらいに、食事しながら打ち合わせをするんです。タイトルを先にプロデューサーが言うときもあるし、漠然とした“その感じいいですね”みたいなことだったり。誰かが発言した一端を捉えて、それを歌にしてみましょうか、と言われたこともありました。

 それでこんなテンポだよね、こんなビートでいったらどうかなとか、アンサンブルはこんな感じとか」

 そしてそのイメージをもとに、阿木は真っさらな状態から詞を紡いでいくのだ。

阿木がすべてをのみ込んで、メロディーも何もない状態で詞を書いてたんです。その詞を僕が見ると、メロディーがバーッと出てきちゃう。メロディーだけじゃなくて、コードからアンサンブルまで出てくることもありました。

 詞の中に、すでにメロディーが潜んでいるんです。僕はそれを拾い上げるだけ。彼女はそんなふうに思ってないんだけど、詞を書いている段階でもう、音楽が成立しているんです。まあ、それを楽曲にするという、僕と彼女のコンビネーションの力はあるんだろうけど」

 宇崎と阿木は、共に明治大学在学中に軽音楽クラブで知り合い、その後、コンビで楽曲を作るようになっていく。

阿木のそういう感性は、大学時代から感じてました。初めて詞を書いてもらったのは結婚するちょっと前。僕らのコンビのデビュー曲ですね。『ブルー・ロンサム・ドリーム』という曲(1969)

 この曲は『ジュリーとバロン』というGSのバンドへ書き下ろしたもの。ただ、リリース直後にボーカルのジュリーが脱退。今では超希少レコードになっているという。

 そして、宇崎が、『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』を結成。’75年に作詞家阿木燿子のデビュー曲となる『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』を発表し、ミリオンセラー(100万枚突破)を記録する。決めゼリフの「アンタ あの娘の何なのさ」は流行語にもなった。