フィリピンで気づいた搾取の構造

 1989年、仁藤さんは東京都内で生まれた。

軽く荒れた家庭で育った」と仁藤さんは言う。家は必ずしも居心地のよい場所ではなかった。支配と暴力が常に視界に入っていた。

 中学生になってからは、できるだけ家にいないことを自分に課した。親に怒鳴られるのも、自分の教育方針をめぐって両親が責任を押しつけ合い、罵り合い、不仲がさらに深まることにも耐えられなかった。

 もちろん学校も安住の地ではなかった。大人が支配する空間がとにかく嫌だった。

 だから街に出た。今世紀の初頭、居場所を求めて10代女性が集まったのは東京・渋谷の街である。そこには求めるものがなんでもあった。カラオケ店があり、ファストフードがあった。酒もたばこも。だが、あくまでも金があれば、という話だ。

 コンビニの店員、ティッシュ配りなどのバイトをいくつもこなした。メイドカフェで働いたこともある。稼いで、遊ぶ。そんな生活にあっても、街で学んだことは少なくない。

「声をかけてくるのは、買春者と性搾取を目的とする業者ばかり。彼らが少女たちに何を求めているのかを知ることができました」

 コラボでの活動は、そのときの自分とつながっている。街中で声をかけてくる男性が欲しがっているのは、金か身体だ。だが、それを理解できたとしても、時にすべてを預けてみたくなる。それほどまで愛情に飢えている少女は少なくない。だからこそ、仁藤さんはさまよう少女たちと同じ目線でいることを忘れない。街の魅力も魔力も知っているからこそ、一緒に歩こうと声をかけ続ける。

 渋谷通いを続けていた仁藤さんは結局、高校を中退する。一般的な価値判断でいえば、それは人生の蹉跌として記録されるであろう。だが、仁藤さんは違った。

 18歳のとき、フィリピンに旅行した。高卒認定試験を受けるために通った予備校でさまざまなボランティア活動をしている人々と知り合い、マニラの貧困地帯を回る機会に恵まれたのだ。

 目にしたのは、自分と同世代の少女たちが日本に「売られていく」光景だった。同時に、マニラまで足を運んで、そうした少女を「買う」日本人男性の姿も視界に飛び込んできた。

「搾取の構造みたいなものを、初めて意識したんです」

貧しいのだから仕方がない」のだと、ほかに選択肢を持たない女性の存在を思った。「買ってあげている」と抗弁する男性の意識を思った。不均衡で不平等な社会を思った。

 初めて、社会を変えたいと願った。学びたいと思った。それが契機となり、2009年に仁藤さんは明治学院大学に入学する。

「ほかの学生とは少し雰囲気が違っていた」

 そう述懐するのは同大教養教育センター教授の猪瀬浩平さんだ。仁藤さんが入学した当時は同センターの専任講師だった。

「新入生特有の浮ついた感がまるでなかった。落ち着いていたというか、堂々としていた。その場の雰囲気に流されない強さみたいなものを感じましたね」

 あとで仁藤さんにその言葉を伝えると、こう返ってきた。

「浮かれてはしゃぐ理由なんてなかったから。だって、そのときはもう、たいがいのことを済ませてきたんで」

 猪瀬さんは早くから仁藤さんに注目していた。例えば、貧困問題をテーマにした授業。必要な新聞記事を集めるよう学生たちに指示すると、多くの学生は「ロスジェネ」など世代の問題が論じられた記事を持ってきた。

「でも、仁藤さんは違った。彼女はただひとり、女性を主題とする記事を集めてきたのです。貧困問題と女性差別の問題が地続きであることを、彼女はそのころから理解していたのですね」(猪瀬さん)

 この日本社会で「値踏み」されることの多い女性の存在こそが、貧困を招きやすいという現実に、仁藤さんは気がついていた。