テレビの前で喜ぶ父の姿
そんな姿を笑顔で眺めていたのが父親である。
「父はテレビの前に座って、“ここに五大路子という名前が出るんだよな”と喜んでくれていたようです。NHKのスタジオ見学をしたこともあります。本番で使ったドレスが展示してあり、記念にほしいと言ったら、父が許可を得て買い取ってくれました」
高3の秋、水をかけられ殴られてから、わずか6年。
「子どもを喜んで殴る親なんていないですよ。あのときは悔しかったけど、この父を裏切ってはいけないと思っていました。だからビンタの痛さはずっと、父の励ましの声として私の中にあった。やっと親孝行ができたなって」
実は五大さんがヒロインを演じた佐藤千夜子さんも、父親の猛反対を押し切って山形から上京し、苦難の末、スター歌手となった。どこか五大さんの歩みと重なる部分がある。
新国劇でも『いちばん星』が舞台化され、新橋演舞場で公演が行われた際、こんなことがあった。
千夜子が父親に、「おどっさん、わだすはおぼこ(=子ども)さ産めねえけど、わだすのおぼこは歌だっす」と言ったとき、客席から「みちこ!」という泣きそうな声が聞こえたのだ。耳なじみのある声。父親は芝居の世界に引き込まれて思わず叫んだのだろう。舞台の上で涙が流れた。
国民的女優から暗転、役者人生の危機に
突如、国民的女優の仲間入りをした五大さん。当時26歳。周りから注目されたら少しは有頂天になってもおかしくないが、そうはならなかった。
「ふと気づくと、自分の知らない“五大路子”が一人歩きを始めているのです。自分を見失いそうになっていた。“これはまずい。あの人(五大路子)を私に引き戻さなければ”と思いました」
そこで思い出したのが、高校時代に会った野口三千三さんの言葉。「あなたしかできないことを探しなさい」。そして自分がずっと温めてきた夢を思い起こした。
五大さんは高校時代から、横浜から発信する演劇をつくりたかった。当時、横浜は東京よりも田舎だと思われていたからだ。文化も芸術も東京に劣るわけではなく、開港当初からの素晴らしい歴史と文化がある。
そんな夢を共有できそうな人が見つかる。大和田伸也さんである。
'79年、テレビ時代劇『水戸黄門』(TBS系)第九部の最終回に出演の仕事が舞い込んだ。大和田さんは黄門さまに仕える格さん役。テレビ時代劇は初めてでわからないことばかりの五大さんに親切に教えてくれたのが大和田さんだった。話してみると、「僕には劇団をつくる夢があるんだ」と言う。私と同じ夢! もしかしたら夢を一緒に追えるかもしれないと思い、'80年に結婚した。
ただ、夫婦で劇団に関わるのは難しかった。長男の悠太さんを出産して6年後の'88年、『劇団1+1』を結成し旗揚げ公演『ハムレットを撃て』を企画した。出演は大和田獏さん・岡江久美子さんと五大さん夫婦、あとはオーディションで選んだメンバー。
好評だったが、五大さんはもう無理だと思った。
「私は女優である一方で、料理や育児もしなければならない。仕事と家庭との両立は無理でしたね。頻繁に衝突もして、このままでは家庭は崩壊すると思いました。だから互いの夢は別に見ようと」
その後はテレビの仕事が増え、NHK大河ドラマ『春の波涛』『独眼竜政宗』『春日局』、NHKの『クイズ面白ゼミナール』にも出演し、舞台の仕事も続けていた。