『できるかな』は生放送のように一発撮りで、撮り直しはほとんどナシ。多くの工作をしてきたが、本人は不器用だと自覚もしていた。
「セロハンテープを刃の部分で上手に切ることが、どうしてもできなかった。だからテープを使うときは、事前に10センチメートルくらいの長さに切っておく。でも、ゴン太くんが動き回るから、全部くっついちゃって。それでも“なんとか完成させなければ”って、汗まみれになってやっていたのがよかった。器用な人が簡単に作り上げちゃうと、子どもにとっては面白くないですから」
声をかけると自宅の中から手を振って
ゴン太くんとのドタバタしたやりとりも人気だった。
「ノッポさんが、ゴン太くんの顔の“エラ”部分を引っ張って、イタズラして怒らせるんです。ゴン太くんの着ぐるみは、頭にある帽子の部分から外が見えるようになっているけど、エラのあたりは死角になっていて見えない。台本なんか関係なかったですよ」
ゴン太くんの着ぐるみは'74年以来、作り直すことなく、番組終了まで使用された。
「'90年に番組が終わって、ゴン太くんは廃棄されそうになりましたが、私が自宅に持ち帰りました。だけど大きいから、家の中にあると邪魔で。私が当時、助教授をしていた『白梅学園』に置いてもらい、そこを定年で辞めた後は、埼玉県内の幼稚園に移しました」
ゴン太くんは、そこで今も子どもたちに親しまれている。
ノッポさんの死が発表された翌日、幼稚園を訪ねてみると、そこには白い花束を持って喪に服し、涙をポロリとこぼすゴン太くんが─。
ノッポさんが住んでいたのは、東京の下町。プライベートは謎に包まれていたが、地元でも有名人なのは変わらず。かつて、ノッポさんが住んでいたアパートの大家さんに話を聞いた。
「ノッポさんが引っ越してきたのは'75年。アパートのテナントに入っていた薬局を奥さんが引き継いだため、その2階にふたりで住むことになりました。薬局はお年寄りのたまり場になっていましたよ。28年間、住んでもらったけど、築60年近くになって取り壊すことにしました」
引っ越し先も近所で、この街を気に入っていた。もちろん、街の人たちからも愛され、
「当時の小学生にとっては、誰でも知っているスターですから。2階に向かって“ノッポさーん”と叫ぶと、中から手を振ってくれましたよ。ある子どもが、自宅前で帽子をかぶっていないノッポさんに“ホントにノッポさんなの?”って聞いたら、家の中に帽子を取りに戻って、軽快なステップでクルッと回って“ノッポさんでしょ”って見せていたことも」(近所の女性)