ある日、編集部にハガキが届いた。長年、ひきこもっている妹がいる、彼女と唯一コミュニケーションがとれた母が亡くなってから、誰とも話さなくなっている、と。70代の父はそんな妹を心配しながらもどうしていいかわからず、接触せずに同居しているそうだ。
家族の声~「8050問題」を考える~
ハガキをくれた佐藤千波さん(仮名=46)に会うと、開口一番、心境をこう打ち明けてくれた。
「もしかしたら人に言うことが大事なのかもしれない。何か前進するかもしれない。そんな思いでハガキを書きました」
5歳年下の妹・祐子さん(仮名=41)は短大を出たころから、ひきこもりがちだったという。
「思い起こせば3歳くらいまで言葉を発しなかったし、決まったものしか食べなかった。小学生のとき、妹が何も話さないので、先生が私のクラスまで事情を聞きにきたことがありました。いつもニコニコしている子だったんですが、生きづらかったのでしょうね。中学に入ってからいじめられたようで不登校になりました」
私立中学に転校し、高校へはエスカレーター式に上がったが、中退。通信制の学校に転じ、成績優秀だったため推薦で美術系の短大に進んだ。そこには本人の大きな努力があったのだろう。
姉の千波さんは、理容学校に行き、父が経営する理容店で共に働いた。20歳で幼なじみと結婚し2人の子を育てながら仕事を続けた。
「店と自宅が隣同士なので、妹のことはずっと気になっていました。妹は絵画、彫刻などが得意で、展覧会で入選したこともあるんです。四年制大学に編入しないかという話もあったのですが、先輩にいじめられたみたい。先生にはかわいがられていたんですが、それも周りに妬まれる原因だったんでしょう。短大の研究室に残るのも、編入も嫌だと。人との接触が怖くなっていたのかもしれない」
もともと“こもりがち”だったとはいえ、卒業直後から完全にこもったわけではない。就職はしなかったが、千波さんの子どもたちが保育園に入ると、よく迎えに行ってくれた。小学生になっても、学校から帰った後は祐子さんが面倒を見てくれた。
一方で粘土を購入して自室で作品を作ることにも熱中していたという。
「私は妹の作品が好きだったから、美術フェスみたいなものに出品すればいいとすすめました。本人もその気になって、何度かチャレンジしようとしたこともあるんです。私が出品できる手はずを整えたんですが、直前に“やっぱり出ない”と言い出す。そのたびに出展費用を出した親もがっかりする。その繰り返しでした」
それでも千波さんの子どもたちは祐子さんに懐いていたし、祐子さんは母親とは仲がよかったため、なんとか自身の“居場所”を確保できていたのだろう。