離婚後の人生設計

 一人暮らしのアパートは、花屋の2階にあった。店の定休日は静かで寂しかったという。否が応でも一人で生きていくことを考えてしまう。そのころからショコラさんは、離婚後の人生設計を念頭に行動するようになる。

 まずパートからの卒業。パートはいつ雇用契約を切られるかがわからない。ボーナスもないし年金がないケースも少なくない。どうせなら社員として働きたいと考えて、就職先を探していたところ、契約社員として入社できる会社が見つかった。有名ではないが、パートのキャリアを認めてくれる化粧品会社だった。別居した翌年、43歳のときに入社した。

 次に住まい。子どもたちがアパートに遊びに来ることもあったが狭い。経済的に少し余裕ができたこともあり、引っ越しを考えるようになる。

 そこでまたママ友の立野さんが活躍した。新聞チラシから入手した「お買い得物件」の情報をショコラさんに伝えたのだ。立野さんによれば、

「最初は彼女、迷っていましたね。でももうご主人のところには戻る気はなさそうだったので、私が“ここを買えば路頭に迷うことはないから。絶対に買わなきゃ”と強引にすすめたんです」

 1LDK、価格は2000万円弱。ちょうど正社員になったタイミングだったので、ローンが組めた。80歳まで返済を続けるプランに一抹の不安を覚えつつも、2003年に購入した。同じ年、離婚もしている。次男が成人したことも理由だった。

お金と仕事に一喜一憂して下した、ある決断

 実はそれ以前にも大きなヤマがあった。元夫の仕事の状況が悪くなり、息子2人が通う大学の授業料が支払えなくなったのだ。長男の久志さんは、

「大学をやめなきゃいけないかな、と相談したんですが、お金は気にしないでと言ってくれました」

 2人とも塾も予備校も行かず、独学で大学入学を果たした。親としては、その努力を無にしたくなかった。実母にも一部援助を受けながら何とかお金をかき集めた。

 しかし金は天下の回り物。息子を無事卒業させた苦労は、10年近く後に報われることになる。元の舅が亡くなった際に発生した遺産に関して、一部がショコラさんにも分与されることになったのだ。それを提案してくれたのが、久志さん。当時彼は法律の勉強をしていたのだ。

「母がマンションのローンの繰り上げ返済で大変な思いをしているのは知っていましたし、大学の授業料もキツいのに支払ってくれたので、その感謝の気持ちもありました。提案すると父も快く、“いいよ”と言ってくれたんです」(久志さん)

 実は当時、ショコラさんは久志さんからこう言われたことを覚えている。

「ケンカに、どっちだけがいい・悪いってことはないよ」

 長男にそうした深い洞察力、バランス感覚があったから、父親も財産分与を快く承諾してくれたのかもしれない。

 いずれにしても、それが繰り上げ返済に拍車をかけ、ショコラさんは、56歳のときにマンションのローンを完済できた。しかしこの時期、仕事の面では岐路を迎えていた。

 大手化粧品メーカーを向こうに回し、ショコラさんは販路拡大を図っていた。ドラッグストアへの商品説明、ポップ作り、肌診断、店の化粧品担当者への研修も担当した。そうした努力が実って東京営業所は売り上げを伸ばした。その実績を買われ、'11年には東京営業所長に昇進した。

「でも自分の売り上げが自分の首を絞めたんです。皮肉ですね。高い売上目標を設定され、夜遅くまで働かなければならなくなったんです」

 ついに体調を崩してしまう。検査を受けると子宮の前がん状態だという。このままではいけないと思ったショコラさんは、平社員に降格させてほしいと申し出た。

 降格は認められた。しかし周囲の社員が元所長に接しづらそうな雰囲気を漂わせている。当然、ショコラさんも居づらくなる。すると今度は帯状疱疹に見舞われた。

 体力の限界を感じ、退職を決断した。そのとき57歳。

 あと3年我慢していれば退職金は満額支給される。57歳でやめたら退職金は半減。一見損だと思うのだが、

「ハローワークに行くと、50代後半向けの求人が結構あったんです。60歳を超えてから仕事を探すよりも有利だということがわかりました」

 再就職先は呉服問屋。ショコラさんは着物に興味がなかった。しかし考えた。

「まったく未経験の仕事のほうが、前の仕事の経験が邪魔をしない」と。

 立場はパート。フルタイムで最初は月10万円、のちに12万円になった。ただ、パートを始めて数年後から仕事への取り組み方を徐々に変えている。つまり「仕事の終活」である。