手腕を発揮し円楽師と独立
アルバイトで植野と落語界のつながりは始まった。用事があるときだけ、六本木にあった『星企画』に出向く。飛行機や列車のチケットや資料を受け取り、数日後に楽太郎と一緒に仕事現場へ向かう。
「マネジメントのノウハウなんかゼロ。最初は付き人ですよね」
落語家の多くは、自分の弟子や一門の前座を、旅の仕事(地方営業)に連れて行くが、円楽師は違ったという。
「お弟子さんを連れて行きたがらない人。同行者は基本マネージャー。弟子はイライラするから嫌だ、小言も言わなきゃいけないから、とよく言ってましたね」
アルバイトを始め、植野は将来の道を変更することを決めた。落語界に身を置こう。そのためには、内定先に断りを入れなければならない。
「らくご?のマネージャーですか」と腑に落ちない様子の内定先の採用担当者に、ただただ謝り続けた。
「やはり破天荒、そんな感じですね。ちょっと言い方を変えれば思い切りがいいのか、勝負度胸があるというか」
そう話す前出・柳家三三は植野の行動を「ちょっとずつ想像の上を行く」と評する。
想像以上の植野の行動力は、円楽師と一緒に独立し新会社を立ち上げたことで、のちに三三を驚かすことになる。
「円楽師匠について仕事をして、信頼を勝ち得て、一緒に会などを作る存在になって、円楽師匠も一目置いているマネージャーさんだと思っていたら、20代で会社を興した。どうなの?ってびっくりしましたけど」
『星企画』のマネージャーとして、そつのない仕事ぶりを発揮し続けた植野は、全スキルを動員し、2010年3月から1年間にわたり全国で繰り広げられた六代目三遊亭円楽披露興行を取り仕切り、成功に導く。300超えの公演数。桂歌丸さんや立川志の輔ら東京の芸人、桂文枝や笑福亭鶴瓶ら上方の芸人をブッキングし、豪華な顔付けですべての会場を満員御礼にする抜かりのなさ。
植野のスキルを認めていた円楽師は、独立して自分でやりたい、それにつけては植野にやらせたい、と『星企画』に伝えていた。芸能ニュース風にいえば、屋台骨を支える売れっ子タレントの独立劇。事務所ともめる可能性もあるが、『星企画』の社長は円楽―植野ラインの希望を受け入れ、反対しなかったという。