円楽師からの最初で最後のお礼の言葉
幼いころから自立心が染みついていた植野にとって、会社を立ち上げることに躊躇はなかった。とはいえ、周囲の壁は女性に対し厳しかった。
「運転資金がないから、金融機関から借りましたけど、手続きが大変でした。一度離婚していて姓が違うので、何回も謄本を取りに行ったり、トータルで3000万円借りました。
円楽師が所属していても、芸能事務所ということで(経営が)不安定に見られました。演芸の世界って、取っ払い(その場での支払い)が基本。仕事先からの入金が2か月後でも、仕事が終わったらすぐに振り込まなければいけない。しばらくは支払金額のほうが残高より多い日々で、完済まで5年かかりました」
円楽師のマネージメントのほか、全国で公演を実施する興行会社として、『まめかな』はやがて軌道に乗る。円楽ありきで2人で立ち上げたが、円楽はあくまでも所属芸人で、資本参加はしていない。
「最大でスタッフは、私以外に8人いました。それぐらいいないと回らない」という規模にまでふくれ上がっていた。
2007年に立ち上げ、今年も11月2日から5日まで九州で開催される落語フェス『博多・天神落語まつり2023』は、円楽―植野ラインが築き上げた、見事な成果だ。所属団体も違う東西の落語家が一堂に会する祭りで、円楽師が残した演芸遺産といえる。
円楽師が発案し、実現可能なことや難しいことを含めて思いつくままアイデアを口にする。それを引き取る植野が具現化する先頭に立ち、実行部隊を指揮する。
自身が二ツ目になったころ、円楽師との落語界などの楽屋で植野を見かけるようになったという落語家、林家たい平(58)は、円楽師を支える植野の仕事ぶりを目の当たりにしてきた1人だ。
植野の第一印象を「鍾乳洞の中で輝くヒカリゴケのような人」とたとえ「美しく、スマートな人と一瞬とらえるけど、実は落語に対する心の強さが揺るぎない人。一切ちゃらちゃらしていない。落語を多くの人に広めたい、そのために何ができるかを円楽師匠が考え、一番そばにいる植野さんがそれを叶える」と円楽師&植野組の実効性を明かす。
さらに、「円楽師匠が考えていることを植野さんにアウトプットし、僕にもアウトプットする。その受け止め方が一緒。円楽師匠という礎があって、そこに石垣のように寄り添っているのが植野さんと僕。同じ城を築こうとしている」と、認識の近さがあることを付け加える。
かつて落語界は男社会で、落語を支えるスタッフも男社会だった。そこに、植野は果敢に飛び込んだ。その姿勢は、「落語のために何ができるか、落語界のために何ができるかを常に考えている人だということが、付き合えば付き合うほどわかってくる」。たい平をして、そう言わしめるほど。
奮闘する植野を円楽師も十分に認めていたが、下町っ子のテレか、面と向かって感謝を表すことはなかった。
「本当に褒めない人でした」と植野は証言するが、円楽師が唯一、感謝を伝え、頭を下げたことがあったという。
「ホテルで円楽襲名披露パーティーが終わり、一門で打ち上げをやっているときでした。『植野が頑張ってくれました。ありがとう』ってみんなの前で頭を下げてくれました。お礼を言われたのはそれが最初で最後でした」
ただ、嶋川と結婚すると報告した際、「相手は芸人かよ」と驚きつつも、結婚式を開くことを買って出てくれた。芸人仲間だけを集めた、円楽主催の披露宴で、ウエディングドレス姿で焼酎の『森伊蔵』の一升瓶を抱えてラッパ飲みする花嫁、テツandトモと♪なんでだろう♪を歌いまくる花嫁、最後は腰が立たないほど酔いつぶれた花嫁。「あれはひどかったですね」。そう振り返る植野は言葉少なだ。