伯母の家を出たくて手に職をつけた20代
熊谷さんの人生は「働きづめ」だったという。その記憶は幼少期にまでさかのぼる。
戦後、父が亡くなり、母は父の弟と再婚するが、家は貧しかった。そのため、熊谷さんは小学校3年生から20代まで岩手県で呉服店を営む母方の伯母の家に身を寄せる。商人である伯母一家はとても厳しく、小学生のころから遠い井戸への水くみ、風呂焚き、店番などの仕事をさせられた。
「母に捨てられたという悲しみもあって、伯母の家での暮らしはつらかったですね。『働かなくてはいけない』という思いが染みつきました」
高校卒業後、洋裁学校と編み物教室で手に職をつけた。24歳のとき、編み機の販売会社に頼まれて、編み機を購入したお客さんの自宅を訪問し、無料で1回2時間ずつ3回、編み機の使い方を指導する講師の仕事に就いた。
「家で働いても給料はもらえないし、伯母の家から出て、ひとりで暮らしていきたかったんです。手に職があれば食いっぱぐれないかなと(笑)。当時は必死でしたね」
その後、32歳で結婚。トラック運転手の夫とともに埼玉県に移り住む。子どもが小さいころは内職をしていたが、夫の失業を機に44歳で呉服店に正社員として入社した。
「バブルの時期で着物はよく売れたんです。伯母の家業でしたから、呉服の知識もあったのもよかったですね。その女社長はすごくいい人で気が合って、今でも仲良しです」
15年間、精力的に働いたが時代が変わり、呉服店は閉店。59歳からノジマに買収される前のラオックスで働き出した。
「身内に恵まれず、『なんでこんな人生なんだろう』と愚痴をこぼすこともありました。でも、出会う人には恵まれて、どこの職場でも嫌な思い出はないんです。
50歳ごろ、知人に占ってもらったら、『熊谷さんは老後がいいよ、すごく』と言われたことがあります。今になって思うと当たっていたのかも。自分でも信じられないぐらい、いい人たちに巡り合ってきたんだと感謝しています」
生活費には基本、年金を充て、パートの収入は孫へのお小遣いや趣味の旅行に費やす。
「70歳からボウリングサークルに入会したんです。週に1回、仕事のあとに参加するのが今の楽しみ。メンバーは60~70代の人が中心で、今、私は女性の最高齢。スコアは全然上がりませんが、90歳まで続けるのが目標です。
昔はすごい頭痛持ちだったんですが、年をとってからはなくなってすこぶる健康体に。好きなことをしているから健康でいられるんだと思うんです」
充実した老後を過ごす熊谷さんだが、できないことも増えてきた。
「困ったときは便利なものを使うように。得意だった洋裁では針に糸を通せなくなったんですが、糸を押し込むだけの新しい針があるんですよ。最近、耳の聞こえが悪くなってきたので補聴器も検討しようかと思っています」
まだ働けるうちは仕事を続けたいと語る、その表情は明るい。
(取材・文/松澤ゆかり)