バイトからラジオの構成作家に
高校時代、清水はいったんは音大に進もうと、再びピアノを習い始めたのだが……。
「音大に入ったら自分は音楽から離れるんじゃないかという予感がすごく強くなったんです。それまで、私が人から褒められることといえばピアノが弾けることでした。でも、音大に入ったらそんなの当たり前じゃないですか。それが嫌で音大を諦め、短大の家政科に入ったんです」
当時、清水の実家は、喫茶店3軒とお弁当の店を経営していた。
「家政科に進んだら、先生にもなれるし、家業も継げるだろうと考えたんですね」
家庭科の教員免許を取って短大を卒業。だが、地元の岐阜には戻らず、東京でアルバイトをしながら、ライブハウスに通い、糸井重里などが講師を務める、クリエイター養成の「パロディー講座」に通ったりしていた。
「短大のころから、パティシエになりたいな、と思って自由が丘のケーキ屋さんで厨房のアルバイトを始めました。そこで楽しかったのは、お菓子作りよりまかない料理でした」
まかないはバイトの担当で、職人さんが「ミッちゃんの作るごはんは美味しいな」って言ってくれる。1人分100円でおかずを作る。
「それがすごく面白かった。パティシエよりお惣菜関係が自分に向いてるなと思うようになっていました」
それを知ったケーキ屋さんが、田園調布の洋風惣菜屋さんを紹介してくれて、清水はそこに移った。
「その店のオーナーさんが面倒見のいい人で、私がどういう人間なのか、ということにちゃんと興味を持ってくれたんです。お笑いが好きでピアノが好き─。そしたら、“うちの2階にピアノがあるから好きに弾いていいですよ”と言ってくれたので、バイト終わりに弾かせてもらうようになりました」
当時の清水は、ラジオの深夜放送やパロディー雑誌『ビックリハウス』にコントなどを投稿して時々採用されたりしていた。そのことをバイト先のオーナーに話すと、ラジオのディレクターを紹介してくれたのだ。会ってみると、「デモテープを作ってきて」と言われた。
「夏なのに、アパートの隣の部屋に聞こえないように毛布をかぶって、桃井かおりさんのモノマネをしたのを覚えています(笑)」
そして新しく始まったミュージシャン・クニ河内のラジオ番組の放送作家兼アシスタントとして出演もするチャンスをつかんだのだ。
「それでも、お惣菜屋さんのバイトは続け、ピアノも弾いてました。ユーミンさんも矢野さんもこのころからマネしてます。最高に幸せな毎日でしたね。その生活は『笑っていいとも!』に出るようになるまで続いたのです」