初ステージ、永六輔さんとの出会い
ラジオ番組では、番組の構成を考えたりしながら、リスナーのハガキを読んだり、自分のモノマネやネタを披露することもあった。
「ラジオ番組を通じて、何がウケるのかがわかり、ネタも増えてきたところで、小劇場『渋谷ジァン・ジァン』の新人オーディションに応募したんです」
小劇場『渋谷ジァン・ジァン』とは、東京・渋谷の東京山手教会地下に'00年まであった収容客数200人弱の小劇場。アンダーグラウンド芸術の発信地として当時の若者に支持されていた。
ここで行われる矢野顕子のライブには清水もしょっちゅう行っていた。
「ライブが終わると、ステージに置かれた矢野さんが弾いたピアノにちょっと触る(笑)。それがいつものことでした」
『渋谷ジァン・ジァン』では日曜日の午後、テープ審査で合格した素人にステージを開放していた。清水もデモテープを送り、審査に通り、初めてのライブ『モノマネ講座』が実現したのだ。観客は全部で20人くらいだったが、憧れの矢野と同じステージに立てたのは感激そのものだった。
そしてそのライブには、思いがけない人物も来ていた。
「実は劇場のスタッフが、私のテープを永六輔さんにも聴かせていたらしいんです。永さんはモノマネがすごく好きだったから。そして、ステージの終了後に、永さんにダメ出しされたんです。“君はネタはプロだけど、生き方がアマチュアだ”と。確かにお辞儀もちゃんとできないし、落ち着きもありませんでしたからね」
永六輔さんといえば、坂本九さんの『上を向いて歩こう』『見上げてごらん夜の星を』の作詞家として知られ、またNHKの音楽バラエティー番組『夢であいましょう』などの構成作家としても活躍し、多くの演芸人をメディアに紹介するプロデューサーでもあった。永さんとの思い出はまだある。
「沖縄にも『ジァン・ジァン』があったんです。そこに連れて行ってくれたのも永さんでした」
初めて訪れた沖縄は、ものすごい嵐だった。とてもお客さんが来られるような状況じゃなかった、中止だろうと思っていたら、雨宿りに寄ったような女性が2人やって来た。
「2対1なんだけど、これはやるしかないのかな、と恐る恐る小さな声で始めました」
そのときは、刑務所を慰問する女という設定のコントだった。その中で、お客さんを受刑者に見立てて、声をかけるというシーンがあったのだが……。
「恥ずかしさのあまり、私はお客さんのいない席に向かって声をかけてしまった。終わった途端、永さんの雷が落ちました」
─なんで、堂々とお客さんのいるほうにいかなかったんだ! それに声の出も悪い。挨拶の仕方もよくない!
「怒られまくりですね(笑)。でも大人になると、そうそう叱ってくれる人はいませんから、永さんには今でも感謝していますね」
これが1986年のことだった。翌年にはフジテレビのバラエティー番組『冗談画報』に初出演し、さらには『笑っていいとも!』にもレギュラー出演する。
「その後、『渋谷ジァン・ジァン』では年に2回くらい、夜7時台でも舞台に上がるようになりました。回を重ねるごとにみるみるお客さんがいっぱいになって、250人も入って満杯になったときは“うわあ!”と思いましたね(笑)」