ダンス教室との出会いが運命を変えた
坂口は5歳のころ、ひどいアトピー性皮膚炎に悩まされるようになる。
「人に見られるのも嫌だし、自分で見るのも嫌だし、外に出るのも嫌だし、寝てるだけでもつらいし、食べたいものも食べられないし。でも母が探してきたお医者さんの漢方薬と、かなりストイックな食事療法によって7歳ぐらいで克服しました。漢方薬、ホントまずくてつらかったです」
その後、小3のときに父の仕事の都合で神戸へ移り住む。
「学校では結構活発でしたけど、見た目とかのハンデをユーモアでカバーするみたいな感じでした。目立ちたがり屋の赤面症みたいな、ジキルとハイド的な性格で」
幼稚園のときから「サーカス団の人になりたい」と言っていた坂口だったが、小4のときに大阪で見たミュージカル『キャッツ』の楽曲『メモリー』を聴いて号泣、舞台に立つという夢を抱く。
「小1のとき、握手をしてお互いに自己紹介しましょうというのがあって。そこで同級生にアトピーの肌を指さされて『それ、触ってもうつらないよね?』と言われたんです。『大丈夫、うつらないから平気だよ』と笑って言ったんですけど、それで『俺は誰かにとって、触りたくない人間なんだな』ということに気づいてしまって……。
外から自分がどう見られているのか、という客観性みたいなものをわかってしまったんですね。そのことが『メモリー』の『お願い 私にさわって 私を抱いて 光とともに』という歌詞で思い出されて、すごくグッサーときてしまって! そうか、自分は誰かに触れられたかったんだという、それまでずっとフタをしていた気持ちがあふれてきて……それが“歌う”という行為で救われて、ちょっと気持ちが楽になったんです」
いずれは舞台に立ちたいと思った坂口だったが、腰が重く、ダラダラしていたという。その尻を叩いたのが母の由紀さんだった。
「中学に入ってから涼太郎が劇団のオーディションを受けようかと言っていたので、『あなたがやりたいのはミュージカルでしょ? 歌は上手だけど、ダンスも必要だから習ってみたら?』と、電話帳で神戸近くのダンススタジオを探したんです。そのころは男の子でダンスを習う人が少なかったので、男の先生がいるところ、いろいろなダンスが学べることでふるいにかけました。女の子の中に涼太郎1人だとやりにくいだろうなと思って。それで見つけたのが、スタジオモダンミリイだったんです」
そこは偶然にも俳優・ダンサーの森山未來の両親が営む教室だった。この出会いが「舞台に立ちたい」という坂口にとって大きな一歩となる。
転機となった初舞台
スタジオモダンミリイは、神戸市東灘区の阪神電鉄御影駅と石屋川駅の間の高架下にある。上を電車が通過するとガタンガタンと音がするダンス教室に、坂口が初めて訪れたのは中2のときだった。
「学校が終わると電車を乗り継いで、1時間くらいかけて行ってました。結構遠かったんですよね。帰りが遅くなると、父が車で迎えに来てくれたりしました」
ジャズダンスから習い始めたが、「ミュージカルに出たい」と公言していた坂口はタップやバレエなどさまざまなダンスのレッスンも受けるようになる。
しかし高校入学のタイミングで父の仕事の都合で神奈川県への転居が決まり、モダンミリイへ通えたのは1年ほどだったという。
それでも縁は続き、高2のときに「ダンス公演のオーディションを受けませんか」という手紙を受け取る。
「中3のときにモダンミリイのダンス公演の手伝いをしたんですけど、僕は裏方で……羨ましかったんですよね。本当は向こうのスポットライトが当たるほうに行きたい、と思いながら舞台の袖ですごく踊ってたら、怒られました」
結果は合格。坂口は高2の夏休みに1人神戸へ行き、ホテルや森山家に居候しながら、『戦争ワンダー』という公演の稽古と本番に全力を尽くした。その姿を見ていたのが、森山未來の友人で、同じ公演に出演していた俳優の八十田勇一だった。
「未來くんから出てほしいと言われたんですけど、僕は踊れないよと返事をしたら『言葉のダンスをしてほしい』と言われて。この公演はダンスで表現するステージだったのでセリフがなかったんですけど、僕のところだけ未來くんとダンサーとトリオ漫才をやるという演出だったんです」
坂口の演じた役はスズメで、おじいさんにいじめられるシーンがあった。
「涼太郎はコミカルな部分を任されてたんですけど、そのダンスを見てたらね、なんかスズメがすごくしゃべりたそうだったんですよ(笑)。だから楽屋で『何かセリフ言ったらいいのに』とすすめたんですけど、演出上しゃべることは許されないというので、『じゃあおまえ、役者になれば?』と。役者になればダンスもできるし、セリフも言えるよって」
舞台に立つ人になりたいと思っていた坂口にとって、初めて俳優という選択肢が生まれた瞬間だった。
「僕のダンスがすごく演じてる踊りだったらしくて。もし八十田先輩との出会いがなかったら、役者は全然考えもしなかったですね」
初舞台を無事に務め上げた坂口は、母の友人でがん闘病中の方から「延命治療をやめようかと思っていたけど、舞台を見て、もうちょっと生きてみようと思ったので続けることにした」と言われたという。
「治療することがいいのか悪いのかは自分にはわからないけど、自分のやってることで人の気持ちを動かせたのってすごいな、やってよかったと思って、決意が固まりました。生きるとか死ぬとかに直結するくらい人の気持ちが動くんだと思ったら並大抵の決意じゃいけないし、全力を尽くさないと失礼になる。そういう仕事に対する向き合い方というのは初舞台のときに教わって、今も大事にしています」