村西氏が続ける。

「文春は、女性側には3年半前から、述べ20時間取材をして“我々は取材をしつくした”と主張しているそうですが、一方の松本さんには、品川駅で直撃取材を1回、吉本興業側にも何回か事実確認を行っただけらしいじゃないですか。

 検証として30万円のホテルのスイートルームに行って写真を撮ったりもしたそうですが、そんなの検証になりませんよ」

 村西は霜月の証言に触れず、文春の取材を精査しない映像メディアに憤りを覚えるという。

「文春は過去において、橋下徹さんや、東国原英夫さんや、最近でも霜降り明星のせいやさんに対して記事の内容で裁判で負けているんです。

 '01年には考古学者の賀川光夫さんの研究を文春はでっち上げだと報じ、賀川さんは“死をもって抗議する”と遺書を残して自殺されたんです。その後、賀川さんの遺族が訴えて文春は敗訴しています」

ダウンタウンブレイク前に作ったPV

 松本を擁護し続ける村西だが、彼は'88年、東京でブレイク前のダウンタウンのPVを製作した。

「当時、吉本興業の常務を通じて仕事の依頼を受けました。彼から“吉本が東京に進出して8年になるがまだ芽が出ない。最終兵器として、大阪から呼んだダウンタウンを世に出したい。在京テレビ局へ名刺代わりに配るプロモーションビデオを作りたいので村西さんにお願いしたい”と言われたんです。私は男性を撮る趣味はありませんでしたが、常務の熱意を受け、請け負いました」

 村西が撮った映像は当時VHSで発売された『ダウンタウン物語 OH! MYハレルヤ』として形になった。

「まだ若かったダウンタウンのお2人のシャワーシーンを撮ったりしましたね。無茶な要求に嫌がるかと思いきや、松本さんも浜田雅功さんも一生懸命に撮影に応じてくれました。

 それからというもの、仕事に真摯に向き合う彼らを見て、私も応援しようと思うようになりました。個人的な気持ちではありますが、彼らの東京進出に協力した身として、このまま引退を座視できないんです」