母から借りた2000万円で店探し
歌舞伎座の裏手、東銀座駅から徒歩2分の路地に喫茶アメリカンはある。目印は緑色のテント。「SANDWICH AMERICAN」と懐かしい感じのロゴで書かれている。店内に足を踏み入れると、24席のこぢんまりした空間。家族写真や手書きの標語、芸能人の色紙、ペナント、ポスターなどで壁から天井まで埋め尽くされている。
厨房のそばに貼られた原口さん手書きのステッカーには、《1983年 アメリカン開店 東京ディズニーランドopen 安全地帯『ワインレッドの心』ヒット》と書かれている。開店は、1983年5月17日火曜日。当時のモーニングセットは380円、開店祝いにはオリジナルの“テレフォン手帳”を配ったという。
「この店を開いたのは、俺が31歳のときだね。あのぐらいの年って怖いものなしなんだよ。いざとなったら肉体労働でも何でもやってやるって。今はもうおじいちゃんになって弱っちゃったけどさ」
原口さんは佐賀県出身。大学の商学部に在学中から、後に妻となる京子さんと交際をスタート。数々のアルバイトを経験し、卒業後は外資系の会社で働いていたが、社風が合わずに退社。その後、大手食肉加工メーカーのエリート営業マンとして30歳まで勤めた。しかし、“やっぱり会社勤めが性に合わない”と実感し、独立を決意した。
「あのころはさ、いい会社に入って定年まで勤め上げるのが当たり前って時代でしょ。でも、自分にとっては会社ってのがどうしても窮屈で合わなかった。だから1人で何かやってみようと思ったんだ。先輩で喫茶店をやっている人がいたのと、食肉加工の会社員時代には仕事柄、サンドイッチを作ったりもしていたから喫茶店をやろうかなってさ」
会社を退職した当時、原口さんはすでに結婚しており、2人の幼い娘も生まれていた。マンションは買ったばかり。当然、店の開業資金はない。頼ったのは、故郷・佐賀にいる母親だった。
「“絶対返すけん。東京で店を開けるには、2000万円ぐらい必要だから、貸してくれ”と頼んだ」
小学校の教師だった母親は、手つかずの地方公務員の退職金を全額、信用金庫から下ろして息子に貸し与えた。余計な説教も詮索もなし。
「しょうがなかね」
と、ひと言だけだった。
母親から借りた2000万円を元手に、原口さんは物件探しをスタートさせた。
「携帯がない時代だから、物件探しも大変だよ。毎日、各駅停車で不動産会社を一軒一軒回る。最初は漠然と、オフィス街でやりたいと思ってた。だから新橋とか神田とか渋谷らへんとか、オフィス街を回ってた。でも見つからないんで諦めて、昨日は京王線、今日は小田急線、明日は東横線……と、もう各駅停車の旅だよ。半年間、失業保険をもらいながら何百軒も回った」
だが、不動産業者からの電話は1本もなかった。
「会社を辞めた人間っていうのは、名刺もないから何者でもない。信用も何もない。途中でちょっとめげて、パチンコ屋で遊んでたよ。こりゃもうダメだなと思って」