こだわったのは1階の店舗

 原口さんが店舗探しでこだわったのは、1階の店舗であること。上階では客が呼べないからだ。

「でもさ、路面店の空き店舗が見つかっても、不動産情報が出たときはとっくに決まってる。必死に探しても見つからないんだよ。諦めきれなくて、店舗物件を扱わない新橋の不動産会社に行ってみた。店舗用物件ありませんか、と」

 そこで紹介されたのが、銀座の不動産会社だった。渡された地図を頼りに、昭和通りに面した雑居ビルの5階に行くと強面の男性が待っていた。

「怪しいオヤジでさ。いきなり“店やりたいの? 金あるの?”と聞いてきた」

「金はあります」と答えた原口さんに、その男性が紹介したのは、まだ営業中の喫茶店だった。インベーダーのテーブルゲームが置かれた、ひっそりとした雰囲気の喫茶店で、男性客が1人、ゲームをしていたのを覚えているという。原口さんは、1日、2日待ってください、とその不動産業者に頭を下げた。

「銀座で店をやるなんて思ってないから、右も左もわからない。でも今思えば、そのころの最高の場所だったんだよな。すぐそこに電通の本社、日産自動車の本社があってさ。そして歌舞伎座。マガジンハウスもそこでしょ。当時のマガジンハウスは全盛期で、ボーナスの札束が立ったらしいよ」

 ここでやるしかない。原口さんは覚悟を決めた。しかし、保証金800万円、造作費用300万円……どんどん資金が消えていく。母親に用立ててもらった2000万円では足りなかった。

「しょうがねえと、持ってたマンションを売ったよ」

 実はこのマンションを買うにも、佐賀の母の助けがあったのだ。

「母ちゃんに相談して“家を買うから300万円貸してくれ”って。したら“東京ば、300万で家ば買えるとね”と。ローンなんて言葉のない時代だから“月賦や、月賦”って説明した。東京出てきてすぐのとき、丸井で何か買ったらすごい怒られたんだよね。“丸井って、それ、月賦の会社じゃろ。騙されとっとよ。現金で買わんとね!”ってさ。がばい(すごい)母ちゃんで、太っ腹。結局、稼げばよかよか、って」

 こうして1983年5月、喫茶アメリカンは開店した。その時、原口さんは決意したという。

「母親が生きている間は絶対に店を続ける」