久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれた香淳皇后
香淳皇后は、1903年(明治36年)3月6日、久邇宮邦彦王と俔子妃の長女として生まれた。昔と今とでは皇室を取り巻く環境などが大きく異なり、比較するのは難しいが、香淳皇后が当時、皇太子だった昭和天皇の后に決まったのは学習院女学部中学科3年生、14歳のときだった。
1924年1月26日、20歳で結婚。翌'25年12月6日、長女、照宮成子内親王が生まれた。この連載で取り上げたことがある、後の東久邇成子さんである。'31年9月、28歳のときに満州事変が起こり、満州国建国が宣言された。'32年、今の佳子さまと同じ29歳のとき、犬養毅首相が射殺された五・一五事件が起こり、翌'33年3月、正式に国際連盟からの脱退を通告するなど日本は国際的に孤立し、戦争の時代に突入する。
そして、敗戦から戦後の繁栄へと、昭和天皇を支えながら激動の時代を生き抜いた。逝去を伝える新聞に、敗戦後間もない'45年8月末、疎開先にいた上皇さま(当時の皇太子さま)に宛てた香淳皇后の次のような手紙が紹介されていた。
《おもうさま(昭和天皇)日々、大そうご心配遊ばしましたが、残念なことでしたが、これで日本は永遠に救われたのです》《わざわいを福にかへてりっぱな国家をつくりあげなければなりません》
秋篠宮さまが子どものころ、上皇ご一家は皇居内の吹上御所を毎週1回、訪れ、昭和天皇と香淳皇后と食事を一緒に楽しんだ。そのときの思い出を、拙著『秋篠宮さま』の中で秋篠宮さまは、次のように語っている。