4か月で会社を辞めて漫画家に転身
高校卒業後、就職した森永乳業をわずか4か月で退社し、洋青年は、『かっぱ天国』で人気だった漫画家、清水崑先生の元に弟子入りした。約4年間の弟子生活を送るうちに、『漫画サンデー』に自らの作品が掲載され、漫画家デビューを果たした。
そんな矢先に、清水先生からすすめられた落語家への転身。
「僕は漫画を描きながら、登場人物の会話をブツブツしゃべっていたんです。それを見た先生が、落語みたいだ、落語家にいい!とひらめき、桂三木助師匠(三代目。名作落語『芝浜』で人気だった)に紹介してくれたんです」
清水先生の指針に従い、1960(昭和35)年、芸名・桂木久男が誕生したが、当時、三木助師匠は胃がんの手術をした直後だった。
「大げさに言うと看病に入ったみたいな弟子入りでした」と木久扇は振り返るが、一流へのこだわりを名人とおかみさんから学んだという。
「師匠はグルメで、みそ汁もおかみさん(三木助夫人)が鰹節をかいて、それと昆布でだしをとって作るという本格的なものでした。地方に仕事に行って宿に泊まる。そこのご飯がおいしいとお米を注文して送ってもらうんです。今みたいにどこでも何でも買える時代ではないですからねぇ。水へのこだわりも強く、物置には富士のお水が、当時はペットボトルではなく瓶に入ってたくさんありましたね」
おかみさんがかく鰹節の音を聞き、匂いを嗅ぐたびに、木久男は、自分の中に子どものころの聴覚と嗅覚がよみがえるのを感じたという。
「朝、おふくろが鰹節をかく音で目覚めていました。今も鰹節や海苔が好きで、鰹節の削り箱がありますよ。ときどき、孫がやってくれたりします」
音の記憶には、「早のみ込みでそそっかしい人でしたけどね」という母親の、三味線の音色まで刻まれていた。
「おふくろは、小唄のお師匠さんでした。うちの中には、歌舞音曲はまかりならぬという戦時中もずっと、三味線が壁にぶら下がっていました。戦後は、生徒さんを教えていましたけど、3000円の月謝をもらいながら、稽古が終わると1800円ぐらいの寿司を出前して食べさせちゃう人。人には好かれていましたけど、子ども心に、どういう計算しているのかなって思いましたね」
自前の絵で謝礼をもらえることを知っていた洋少年には、摩訶不思議な母親の金銭感覚だった。