電話ボックスに名刺を張って営業を
最初の師匠、名人三木助が入門後半年で亡くなると、八代目林家正蔵師匠(隠居名=林家彦六)の元へと移った。寄席で前座修業も始まり、芸名は「林家木久蔵」に決まる。後々、全国に名前をとどろかせることになる「林家木久蔵」としての人生は、26歳のときに始まった。
「正蔵師匠は、誠実な師匠でした。狭い長屋暮らしだったので、家の中の掃除はあっという間にできますし、小言はなかったです。ただ、寒い冬に外で、窓ガラスを拭くのはつらかったですけどね」
そんなことはおくびにも出さず、木久蔵は窓ガラスを拭いていた。そんなある日のことだった。
「ガラッと玄関から師匠が出てきた。師匠の家の茶の間には昔ながらの火鉢があって、そこにかかっていた鉄瓶を持って出てきて、バケツにお湯を入れてくれたんです。そのころ、師匠は手も震えていたんですが、その手で重たい鉄瓶を持ってくれて……」
木久扇の創作落語に『彦六伝』という噺がある。彦六師匠へのオマージュで、1982(昭和57)年に亡くなった彦六師匠を知らない現代の客前でやっても、いつも爆笑を呼ぶ噺。その秀逸さ、普遍性について語るのは、ユニオン映画株式会社の飯田達哉さん(72)。『笑点』のプロデューサーとして、40年以上の長きにわたり、木久扇を見つめてきた人物だ。
「彦六さんを知らない人が多くなっているのに、あの人が語ると、そういう人なんだなって思えるし、落語から彦六が飛び出してくる。人物伝としては秀逸ですよ」
と手放しで絶賛する。
テレビでバスケットボールを見ていた師匠が、震える声で「誰かおせえてやらねえか。網の底が抜けているのが知らねぇのか」と、バスケットボールを玉入れと勘違いするやりとり。「どうして餅にカビが生えるんだ」という疑問に「早く食わねぇからだ」と返す、ある種シュールなツッコミ。立川談志師匠の国政出馬を面白おかしくまとめた落語『明るい選挙』と双璧の噺で、木久扇のスキャニング力、観察力がいかんなく盛り込まれている。
木久扇が彦六師匠から学んだことに、お礼の仕方がある。
「正蔵師匠はよくお礼状を書いていました。お中元の挨拶も、今みたいな配送ではなく、自分で持って行っていました。都電を乗り継いで、『瞼の母』などを書いた作家の長谷川伸さんや『佐々木小次郎』などを書いた村上元三さんのところへ盆暮れには必ず届けていましたね」
木久扇は今、朝食が済むと毎日「10通ぐらい」のはがきを書くのが日課だ。自身のイラストを印刷したオリジナルはがきに、手書きで住所を書き、手書きでひと言添える。
「高座が面白かったと感想をくださる方や仕事でお世話になった方、楽屋に差し入れを持って来てくださった方、献本をいただいた著者に書きますね。絵も入っているので、字がいっぱい要らないんです。手書きだと、受け取った人が取っておいてくれる。普通は捨てちゃうでしょう。もう毎日書いているから得意なんです」
とお礼状の真意を伝える。
スーツ姿でサングラスというダンディーないでたち
前出・彦いちは入門後の数年間、師匠の旅(地方営業)にお供したが、そのころの印象的な姿を明かす。
当時、木久蔵だった師匠は50代、スーツ姿でサングラスというダンディーないでたちで、手には、落語家とはちょっと不釣り合いなアタッシェケースをいつも持っていたという。
「そのアタッシェケースは師匠の机だったんです。電車や車での移動中、膝の上にアタッシェケースを置いて、礼状を書いていました。とにかくマメ。もらう方はうれしいでしょう、直筆ですから」
木久扇は今も毎年、600通の年賀状を書くという。そこにももちろん、直筆のひと言を添える。背景にあるのは、
「落語家っていうのはひとり商売ですから、つながるのが商売なんです」
という木久扇の思いだ。はがき1枚によって、お客さんとつながれる。
「前座のころ、誰が僕の落語が好きで、誰がご贔屓になってくれるのかわからない。ただ前座のころから人とつながって、人に覚えられないと出世しない、ということは感じていました」
その思いから、知り合った方、お世話になった方に、礼状をしたためるようになった。
公衆電話ボックスが街のあちこちにあった時代のこと。一時期、公衆電話ボックスのガラスに、風俗系のチラシが張りつけられていた。そこにも木久扇は目をつけた。
「引っ越したため使えなくなった名刺を、捨てるのももったいないので、新しい電話番号と『司会やります』というメッセージを書いて張りつけていました。仕事はほとんど来なかったですけど、周りからは『マメだね』って言われましたね」
マメである前に、電話ボックスに名刺を張りつけてしまうというひらめき。他の芸人にはなかった発想。談志師匠に気に入られたのも、そんな発想から生まれた気遣いからだった。
「当時、談志さんは二ツ目で柳家小ゑん(以下、談志と表記)と名乗っていました。売れっ子でした。あれは夏でしたね。まだ寄席に冷房がなかった。談志さんが楽屋に飛び込んできて『こんな暑いときに一席やんのか、やんなっちゃうな、(高座を)降りたら風呂に行きてぇな』ってつぶやいたんです。
それを耳にしたんで、談志さんが高座を降りて着替えているときに、『これお使いください』ってタオルと石けんを渡したんです。そうしたら談志さんが目をむいて『これ、おめぇのか』『はい』『おめぇ売れるぞ』って。すごくうれしかったですね。
それ以来、談志さんがばかに気に入ってくれました。僕は着物を着せるのもうまかったので、談志さんがすぐに『木久蔵はどこにいる?』と。高座返し(高座の座布団を裏返しにしてきちんとそろえること)もうまかったので、談志さんの指名で僕がやっていました」
今春の番組卒業まで貫かれた『笑点』における木久扇(当時の木久蔵)の方向性を示したのも、談志師匠だった。
「おめぇ、発想が面白れぇから与太郎でやってみな」
そのとおりを、木久蔵は実践した。俳優が役作りをするような、そんな感じで。