息子が明かす父親としての木久扇

小唄の先生をしていた母と3歳のときの木久扇
小唄の先生をしていた母と3歳のときの木久扇
【写真】『笑点』最終収録日に弟子たちと記念撮影を撮った林家⽊久扇

 1969(昭和44)年、32歳のときに木久蔵は『笑点』のレギュラーメンバーとなった。二ツ目になって4年目の抜擢。今は長寿番組として堂々たる風格の『笑点』だが、「番組自体が、こんなに長く続くとは思わなかった」と当時の心境を木久扇は吐露する。

「今のように、新メンバーが入ったことが騒がれることもなかった。メンバーもしょっちゅう入れ替わっていましたからね」

 32歳木久蔵が感じた思いに反して、86歳木久扇まで55年間、座布団に座り続けた。
『笑点』で忙しかった時分の木久蔵の姿を、息子で弟子の二代目林家木久蔵(48)は、幼稚園時代の記憶として振り返る。

「常に父がいない。朝起きると隣に寝ているけど、あんまりしゃべったことがない」という感覚からある日、母親に「あのおじさん来ているね」と素直に伝えたことがあるという。交通の便が今ほどよくなく、地方営業はほぼ泊まり。父の不在は、月の半分以上に及ぶことがあった。

「これはまずい!と思った母が、『笑点』を僕に見せて、『お父さん出ているわよ』と説明してくれました。奇妙な気分でしたね」

 多忙な一方、一緒にいるときは打って変わって、

「ものすごく構ってくれましたね。人を喜ばせるのが元来好きな人ですから、昆虫好きな僕のために、地方の仕事先からカブトムシをいっぱい持って帰ってきてくれたり、外食にも連れて行ってくれたり、本屋さんではたくさん本を買ってくれましたし、スーツとサングラス姿で授業参観にも来てくれました」

 と父子関係を構築することにも、父は奮闘した。

 その一方。学校では、いじられ続けるという体験をした。

「小学校高学年になると、いじられましたね。低学年のころは、運動神経がよかったのでクラスの中心ぐらいにいましたが、ある日、父が『こんなこと言ってたな』とか『バカなこと言って』とからかわれました。月曜日に学校に行くのがつらかった。みんな僕の耳元で『笑点』のテーマ曲を歌ったり、『来たぞ笑点が』って言われましたからね」

 今では、笑い話として打ち明けることができるのは、木久蔵が父に寄せる全幅の信頼感からだ。

 父の教育方針が「全面肯定でした。世間はなまやさしいものじゃない、という注意は一切ありませんでした」と明かしつつも「でも、父の言い分と現実が違ったときのショックは大きかったですけどね」