家庭を切り盛りしていた母

『笑点』最終収録日にお弟子さんたちと記念撮影
『笑点』最終収録日にお弟子さんたちと記念撮影
【写真】『笑点』最終収録日に弟子たちと記念撮影を撮った林家⽊久扇

 不在がちな父に代わり、実際に家庭を切り盛りしていたのは母だった。

「母は子どもを、普通の家の子として育てたかったので、テレビ局から子どもも一緒にという出演依頼があっても一切断っていました。夜ごはんは7時きっかり。1分でも遅刻したら食べさせない。そんな感じでしたね」

 と母の厳しいしつけを語りつつも、両親については、

「昭和の夫婦像を見せてもらったなと思います。亭主が第一で、食事にしても最初に手をつけるのはお父さん。一番風呂もお父さん。僕が幼稚園のころからお弟子さんがいて、みんな『はい、師匠』という感じで反論も一切できない。辞めていく弟子もいて、厳しい人なんだな、『笑点』のあれだけの人じゃないんだな、って思いましたね」

 父に対する母の言い分は絶対、と木久蔵は続ける。

「今日に至るまで元気で出演できたのは、内助の功の母のおかげであることが大きいですね。病気のとき、異変を真っ先に感じ病院に行くことをすすめたのは母でした。『笑点』も、健康なまま元気なうちに卒業してほしいのよ、と言っていましたしね」

 実は「2、3年前から考えていました」と、木久扇は卒業時期について証言する。前出・飯田さんも「『24時間テレビ』で卒業を発表する1年ぐらい前から、あれ、引き際を考えているのかなぁという気がしていました」と、今だからと振り返る。

 木久扇の最終決断の背中を押したのは、やはりおかみさんだった。

「お父さん、もういいんじゃないの」

「そうだね」

 実に江戸前のさっぱりしたやりとりで、木久扇は腹を固めた。そのことを『笑点』スタッフに「こないだ、“もういいんじゃないの”と、かみさんに言われて、僕もいいよって答えたんだよ」とネタ的に話したところ、それが上へ上へと伝わり、卒業時期の模索から確定へとつながっていったという。

「卒業するにあたって心がけたのは、湿っぽい別れにならないようにすること。みなさんお世話になりました、というのは嫌だった。(桂)歌丸さんも(三遊亭)円楽さんも具合が悪くなって、大変でしたけど、僕は最後まで笑わせて身を引きたかった」

 そういう思いどおりに振り切った木久扇で、卒業までの半年を過ごした。

 飯田さんは「寂しい様子はなかったですね、普通だった。辞めると発表して肩の荷が下りたのか、面白さに余計に拍車がかかったんじゃないですかね」と卒業に至るまでの一皮むけた感を指摘し「病気でフェードアウトするより、自分で辞めたほうがスッキリすると言っていましたから」と理想的な引き際をたたえる。最終収録後は現場で出演者とスタッフ一同で乾杯をしたが、涙はなかったという。

 前出・彦いちは「僕にとっては『笑点』をやっているかどうかは関係ない。落語家はみんな、仕事をやっては辞めての繰り返し。僕の中では、ハードスペックを持ち、V8エンジンを積んだマッドマックスみたいなおじさんに入門したのであって、あのころと師匠は変わらない、今も面白おじさんのままです」と明かし「むしろ病気になったときのほうが大きな出来事だった」と振り返る。

 木久扇は53歳のときに胃がん、77歳のときに喉頭がんに罹患した、がんサバイバーだ。

「あのときは落語家廃業も考えた」と打ち明ける喉頭がんの治療だったが、「前向きでしたよ、落ち込んだらダメだってわかっているから常に前向き」(前出・飯田さん)と周囲に必要以上に気遣いをさせなかった。

「僕が二ツ目のときに、父が胃がんになって、親の死を初めて意識した」という木久蔵は、「親が元気なうちに真打になること、孫の顔を見せてあげたかった、それが叶ったので、あとの人生はご褒美みたいなもの」と明るい。「年を取ると、話術もままならない、仕事も減る、落語が怖くなるというたくさんの芸人の苦労を見てきたので、うちの父は楽しそうにやっているので、このまま楽しい余生を過ごしてもらえれば」

 おかみさんに「お父さん、視野の中にいてちょうだいよ」と言われるほど、木久扇の行動は衰え知らずだ。