その存在が社会現象ともなったPUFFYのふたりと 提供/広瀬光治さん
その存在が社会現象ともなったPUFFYのふたりと 提供/広瀬光治さん
【写真】かつて番組で共演していたPUFFYのふたりと広瀬さん

 編み物の先生といえば今でも女性がほとんど、編み物を楽しむのも女性が圧倒的に多い。

 そういった中で、30年ほど前に男性である広瀬さんがニットデザイナーとして彗星のごとく現れ、エレガントなたたずまいで編み物ファンの裾野を広げたことは間違いない。広瀬さんの原点は、幼少期の環境にあったという。

男の子が編み物をするのを止めなかった両親に感謝

母が洋裁の仕事をしていたので、洋裁の本を目にする機会が多く、きれいな洋服に興味がありました。小学生のとき、ピンクのサテンのドレスを着たバービーの人形が欲しくて、お小遣いを貯めて買ったときのうれしさは今でも覚えています。そのバービーの洋服を手作りしていましたが、両親には『男の子なんだから』と止められたことはなく、むしろ仕上がりを褒められたものでした。あのときたしなめられていたら、ニットデザイナーにはなっていなかったと思います

 編み物を始めたのは高校生のときだ。同級生の女の子たちが編み物をしているのを見て、自分もやってみたくなった。

最初は手袋を編みましたが、ゲージの取り方など基本がわかっていなくて、本を見てもうまくできなかったんです。それで自分で型紙を作って、それに合わせながら編んでいくようにしたら、本を見なくてもできるようになりました。人と同じものを作るのはイヤで、模様を組み合わせたりして、オリジナル作品を完成させていきました

 広瀬さんの作るニットは評判となり、近所の人たちからも「編んでほしい」と依頼されるまでになった。とはいえ編み物を職業にするという発想はなく、高校卒業後は水産会社に就職している。

編み物への情熱は失っていなかったので、仕事をしながら霞ヶ丘技芸学院の夜間部に通って本格的に勉強をしていました。会社では経理担当でしたが、電算化の波が来て、このままだとそろばんや簿記は役に立たなくなるかもしれないという危機感も持つようになりました。ちょうど学院を卒業した22歳のとき、日本ヴォーグ社に転職が決まり、編み物雑誌の編集者・講師として、趣味を仕事にすることができたのです

 最初は編み物講師を対象にした講習を行っていたが、そのうち一般の人にも教えるようになった。女性がほとんどの世界で、華やかな容姿の広瀬さんはひと際目立ち、人気を博していく。そしてテレビ番組『おしゃれ工房』(NHK)などへの出演をきっかけに、“ニット界の貴公子”としてブレイクした。

当初はまだ会社員だったので、テレビ番組の出演にあたっても会社の許可が必要でした。もっと自由に活動の場を広げたいと思い、44歳で会社を辞めて独立したのです

 自らがモデルとなって編み物誌の表紙に登場することもあり、メイクをしていることも目を引いた。

テレビに出たときにヘアメイクの方がついてくださり、メイクをすると顔がこんなに変わるんだと驚きました。講演会でステージに立つことも多くなったので、人前に出るときはメイクをするようになったんです

 時には徹夜で作品を仕上げることもあり、精力的に働いてきた広瀬さんだが、60歳を過ぎると年齢なりの衰えを感じるようになった。

肩もこりますし、老眼で手元が見づらくなりました。ひざも痛くて、2週間に1回はヒアルロン酸注射をしています。ただ健康診断では病気らしい病気を指摘されたことはありません。日本酒が大好きで、毎日結構な量を飲むのですが、肝臓の数値も今のところ大丈夫です。お酒を飲んで22時に寝て5時に起きるのが日課です