香港で敏腕クリエイターに
旅から日本に戻ると今度は番組MCに抜擢。『電波少年』以外でも活躍の場を広げたが、'05年に父親の体調が悪くなったこともあり、日本の芸能界を引退して香港へ。その後は華麗な転身を遂げた。
「香港に戻って、ラジオの美術監督やクリエイティブディレクターとして制作や宣伝を担当しました。その仕事が順調にいき、新しいことに挑戦したいと思って、いくつかの会社で広告デザインの仕事もしました。今はデザインコンサルタントをやっています」
母国で敏腕クリエイターとして活躍しているが、今でも日本への思いはかなり強い。
「僕は日本のことが大好き。日本と関係がある仕事もしています。例えば、JA全農のイベントで日本の食材を香港で広める仕事。福島県のお米を使ったクラフトビールを香港で発売する際のラベルをデザインしました。ほかにもTBS系ドラマ『DCU』主題歌のミュージックビデオの現場美術監督を担当したり。これからも日本と香港のコラボの仕事をやりたいです」
再び日本に来たときには“夢”があるようで……。
「日本で個展を開きたいです。あとは一緒に仕事をした人や、電波少年で日本全国に行ったときに出会った人たちと再会したい。その子どもたちも、もうお父さんやお母さんになっているかもしれないですね」
日本と香港の文化をつなぐ“架け橋”となったチューヤン。現在は表舞台に出ていないが、自分を思い出してくれる日本人に対して、特別な思いがあるようで─。
「僕は変な香港人なのに、嫌いにならずに受け入れてくれた日本のみなさん。今でも覚えてくれている人たちがいてくれて、本当に泣くほどうれしいし、感謝しています。また会いましょう!」