10代のころはどこにでもいるようで、かつどこにもいない可愛らしさで知られたアイドル。人気絶頂期には、衝撃のロックバンド結成宣言も……。歌手として、女優として歩んできた彼女がデビュー40周年を迎え、考えていることとは。「会った人の数、流した涙の数、笑ってきた数」を重ねてきた人生を振り返ってもらった。
スカウトされた時は“反抗期”の真っ最中
2024年4月にデビュー40周年を迎えた菊池桃子。トップアイドルの道を駆け上がり、歌手として女優として、結婚・出産・子育てを経て今なお精力的に活動中。そんな彼女にこれまでの人生を振り返ってもらった。
芸能界に入ったきっかけは、当時のアイドルの定番「スカウト」だった。
「都内で飲食店を経営していた叔母が、お店の目立つところに親戚で撮った集合写真を飾っていて、それをたまたまプロダクションの関係者の方が見てくださって、一度私に会ってみたいと……。思いもしなかったことで、家族で驚きました。
実はそのころ、私は“反抗期”の真っ最中だったんです。徐々に自立心が芽生えていた中学生のころで、両親に決められた門限や行動範囲の制限に対して、漠然と不満を持っていました。そんな気持ちもあり、お話をいただいた際に、違う世界を一人で見ることができるいいきっかけだと思い、『やりたいです』と返事をしました。
それからレッスンに通い始めたのですが、実際にデビューできるとは考えていませんでした」(菊池、以下同)
デビューは1984年。先駆けて、自身の名を冠した新創刊のアイドル雑誌『Momoco』のイメージガールとして表紙を飾ったのち、立て続けにスクリーンデビュー、歌手デビューと、元祖・メディアミックスアイドルと呼ぶべき華々しいデビューを飾った。
「普通の女の子」という親しみやすいイメージと、独特のウィスパーボイスで歌う姿に“桃子人気”は、どんどん加速していく。
「1枚目、2枚目のシングルが発売されたころは、オリコンのランキングが、スタッフのみなさんの期待ほどではなかったようです。実際まだ認知度は低く、全国をキャンペーンで回っているときも、人が来ないこともたくさんあって。スタッフさんだけの前で歌うようなこともあったので、自分としてはとんとん拍子でいったとは思っていませんでした」
人気を実感してきたのは、デビューから半年くらいたってからだったという。
「私はどこにでもいるタイプというか、背格好も平均的で目立たなかったので、デビュー後も普通に電車で通学していました。でも、3枚目の『雪にかいたLOVE LETTER』というシングルを出したころでしょうか。他の学校の生徒さんたちに『菊池桃子じゃないか』って囲まれて、乗り換え駅で降りられなくなったことがあるんです。そのころからは通学の際は顔を隠したり、うつむいたりするようになりましたが」
注目が集まっていく中、レコード大賞の新人賞を辞退するなども話題となった。
「当時私が所属していた事務所『トライアングル・プロダクション』は、音楽系のアーティストだけがいる音楽事務所で、私が初の所属アイドルでした。賞レースには積極的ではなかったというか、出ない方針だったと思います」