小説家への夢と就職での挫折の果てにー
「絶対音感ってあるじゃないですか? 習得できるのは4、5歳までで、それ以降になるといくら訓練しても身につかない。そういう能力って人間の身体にはほかにもあって、スポーツもそうだし、物語をつくる能力もそのひとつだと僕は思うんですよ」
1951年、夢枕は神奈川県小田原市に生まれた。くしくも4、5歳のころ、父親が寝物語を聞かせてくれていた記憶が夢枕にはある。
「毎晩、親父が適当につくった話をしてくれたんですけれども、“はい、おしまい”って言われても僕は全然寝ない子で、“その続きはどうなったの?”ってしつこく聞いていたんです。
そのうち親父も続きを考えるのが面倒くさくなってくるから、“じゃあ僕が話す”と言って、布団の上に立って寝ないで物語をしゃべっていた。どんな物語だったのかはよく覚えていないけれども、知らず知らずの間に楽しみながらそういう訓練をしちゃったおかげで、70歳を過ぎた今でも物語が枯れることなく湧いてくるんじゃないのかな」
書くことは苦にならない。中学生になると小説を書き始め、ガリ版を切ってクラスメートに読ませていた。
「そのころには自分は小説家になるんだと確信的に思いながら書いていました。だけど、そのために勉強したわけでもなくてね。資料を読んで、史実や事実をわかったうえでウソを書くということを知らず、想像だけで小説は書けると思っていたんです。だから何を書いても、途中でどうしていいかわからなくなった(笑)」
高校生になると読書量も増え、小説の作法もわかってくる。夢枕は友人を誘って校内に文芸部をつくり、小説を書き続けた。そして東海大学文学部へ進むと、作品をいくつもの同人誌に寄稿するようになった。
が、まだアマチュア作家。大学卒業後は出版社の採用試験も受けたが不合格。落ちたことで夢枕は自ら退路を断ち、アルバイトをしながら小説家を目指した。
「月2万円の食費を入れれば家にいてもいいと親も許してくれたので、土木作業員をやったり、夏は奥上高地の山小屋で働いたりしながら小説を書き続けたんです」
小説と山。どちらも夢枕にとっては冒険の舞台だった。ヒマラヤには9回も訪れているが、最初に行ったのが23歳のときだった。
「20歳のころには山の小説を書きたいと思っていたんですよ。で、アルバイトでお金を貯めて、いよいよヒマラヤへ出発というときに親父が交通事故に遭って頭蓋骨陥没の重傷を負ったんです。病院に駆けつけると、命は助かったけれども、おふくろはベッドの横でおろおろしていた。だから僕も、“ヒマラヤへ行くのはやめて就職するよ”って言ったんです。そしたら親父が、“ヒマラヤ、行ってこい”と。あのひと言がなかったら、僕は小説家になっていなかったかもしれない」