インドでの衝撃の体験とスタンディングオベーション

マリアさんの母の90歳記念で親戚が集まったときの写真。中央がマリアさんで左隣が舘野。その斜め前に座っているのがマリアさんの母
マリアさんの母の90歳記念で親戚が集まったときの写真。中央がマリアさんで左隣が舘野。その斜め前に座っているのがマリアさんの母
【写真】フィンランドに訪ねてきた岸田今日子さんとのツーショット

 2023年、最愛の妻・マリアさんが亡くなり、現在は1人暮らしをしている舘野。これまでフィンランドと日本を行き来していたが、これからは生家である東京・自由が丘の自宅を拠点にしていく。

「フィンランドは社会福祉が手厚いため、仕事をしている高齢者はほとんどいません。だから仕事の話ができる人がおらず、向こうでは何もすることがないんです。幸い日本では仕事がたくさんあるので、生涯できるところまで弾けるだけ弾きます。いつまでできるかは神のみぞ知るですが」

 毎年、夏は涼しいフィンランドで過ごしていたが、今年の9月はインド、ネパール、ブータンに演奏旅行に出かけることにした。

「クラシック音楽が浸透していない国に、質の高い音楽を届けたいという思いがあり、ネパールとブータンはずっと行ってみたい国でした。インドに行くのも45年ぶりでした。結果的には素晴らしいコンサートになりましたが、ピアノを聴かせる環境がここまで整っていないとは思っておらず、あの状況でよく演奏できたなと。もう自分は神様に近いと思ったくらいです(笑)」

 インドの会場は立派だったが反響板がなく、音が全然響かない状態だった。

「舞台の後ろにあるカーテンを外すと石があるので、せめてその石に反響させようと考え、カーテンを開けてもらいました。でも本番が始まるとやっぱり響かず、2ページぐらい弾いたところで中断したのです。こんなことは87年の生涯で初めてのことでした。カーテンを開けられるところは全部開けてくださいとお願いし、やっと生きた響きが出せました。

 それから1時間くらい演奏しましたが、観客はすごく感激してくださり、スタンディングオベーションです。途中からどんどんお客さんが入ってきて超満員になり、座れない人は階段や床の上に座って、立っている人もいました。面白い体験でしたね」

 ブータンでもやはり反響板がなく、薄くマイクをかけてもらった。ネパールでは、10年近く使っていないピアノと向き合って、音を開かせるまで時間がかかった。しかし本番はとてもいいコンサートになったという。

「観客のみなさんが心を開いて演奏を聴いてくださり、一体となって、だんだん幸せになってゆくのが伝わってきました」

 今年6月には、フィンランドで出版された評伝の邦訳本『奇跡のピアニスト 舘野泉』(みずいろブックス刊)が発売となった。

「フィンランド版のタイトルは『IZUMI TATENO ピアノのサムライ』です。異文化からやってきたピアニストがどうしてフィンランドで活躍できたのか、ヨーロッパの人間から見た姿が興味深く書かれています。マリアは日本でこの本が出ることを心待ちにしていたので、日本語版には彼女の写真も多く載せてもらいました」

 88歳を前に活躍し続ける父を、ヤンネさんは次のように見ている。

「大きな病気をしたけれど、父という人はいつもずっと変わりません。好きなことをやって、好きなところへ行って、好きなものを食べて、好きなお酒も飲んで。人が好きで、でも人との距離をうまく保ちながら、人を惹きつける不思議な力で人を巻き込み、自分の使命をよくわかってピアノを弾き続けています。身体は年齢と共に不自由さが増しても、やはり変わることはないのでしょう」

 11月のバースデーコンサートでは、和楽器とのアンサンブルも注目されている。来年には数え年90歳の記念コンサートを計画中だ。

 舘野は生きている限り、旺盛な好奇心で新しい表現を模索し、全国に足を運び、聴衆のためにピアノを弾き続けていく。

<取材・文/垣内 栄>

かきうち・さかえ IT企業、編集プロダクション、出版社勤務を経て、'02年よりフリーライター・編集者として活動。女性誌、経済誌、企業誌、書籍、WEBと幅広い媒体で、企画・編集・取材・執筆を担当している。

舘野泉 バースデー・コンサート 2024
11月2日(土)14:00 南相馬市民文化会館/11月4日(月・振休)14:00 東京文化会館 小ホール(問い合わせ:ジャパン・アーツぴあ、︎0570-00-1212)