それまでの女子プロレスラーとは異質な存在だと言われた神取忍。昭和58年から全日本選抜柔道体重別選手権66㎏級を3連覇。昭和59年世界柔道選手権大会で3位など、ほかにも国際大会で輝かしい成績をおさめたトップクラスの柔道家がなぜプロレスラーに─。
当時、女子プロレスの団体は全日本女子プロレスだけだったが、昭和61年に新団体『ジャパン女子プロレス』が旗揚げした。コンセプトは『プロレス版おニャン子クラブ』で旗揚げ戦には、ゲストで本田美奈子さんや少女隊、アントニオ猪木も登場する華やかなものだった。
神取は『ジャパン』創立時からの所属で、ジャッキー佐藤、ナンシー久美、風間ルミと並んで“四天王”のひとりと呼ばれた。
「ものすごくプロレスラーになりたいと思ったことはなかったね。柔道は15歳からたった6年しかやっていなかったけど“町道場”出身なのに私は強かったから総本山の講道館から距離を置かれていました。一応オリンピックも目指していたけど、当時はまだ女子柔道は正式競技ではなく公開競技でしたから、メダルをとってもどうかなって、モチベーションも下がっていたんです」
そんなタイミングで、友人が神取の履歴書を『ジャパン』へ送ったことがきっかけで、プロレス入りすることに。
「だから下積みはまったくなしで、つらいと思うようなこともなかったねー。柔道で苦しい稽古はさんざんやっているから今さらキツイなんて思わなかったしね。それにしてもレスラー初心者で最初から四天王。おかしいでしょ(笑い)。異端児ですよ。新しいタイプの“ヒール”でした」
とはいってもプロレスと柔道では勝手が違う。戸惑うことも多かった。
「プロレスは受け身がいろいろあるんだよね。柔道は横受け身だけでしょ。そのへんが難しいね。今でも受け身が下手だって言われますから」
ひたすら攻める“ブルファイター”にありがちな大きなケガもしたことがないという。
「大きなケガっていえば、ちょっと前に足の指を骨折したことかな。でも、バラエティー番組で相撲をとったら土俵につまずいて……(笑い)」
当時はほかのプロレス団体の道場に出稽古に行くこともあり、そこでのスパーリングの相手はいつも男性レスラーだったという。柔道で培ったスタミナと持ち前の格闘センス、鍛え上げた肉体で、神取は瞬く間にトップレスラーに上りつめていった。
しかし、ほどなくして『ジャパン』に経営不安が生じ、神取はプロレス界初の“フリー宣言”をする。同時に、絶大な人気を誇っていた長与千種に対戦を申し込むが、長与が乗り気だったにもかかわらず、団体の思惑もあって実現することはなかった。
同い年の長与とは今でも仲がよく、昨年は神取の生誕50年記念イベントに参加し、3人対3人の6人タッグで戦っている。
結局、『ジャパン』は解散となってしまったが、’92 年にレスラーが代表を務める新しい女子プロレス団体の旗揚げに参加し、現在も現役。’06 年から’10 年までは参議院議員として政治家も経験した。
「しいて言えば、つらいことはほかの選手と違い、経営とか対外的なこととか団体の代表としての諸々のことかな」
いま神取はレスラーでありながら経営者でもあるのだ。
「女子プロレスって日本の文化なんですよ。これをなくしちゃいけないね。自分はプロレスに助けられたところもあるから、これをずっと残していきたい」