嫁ぎ先の信州伝統料理にカルチャーショック。これが江戸料理の下地に

新人脚本家の登竜門として有名な『大伴昌司賞大賞』を受賞。講師で審査員の先生方と記念撮影
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 夫になる人と出会い、結婚したのは32歳のとき。大阪の印刷会社を辞め、夫の住む長野県松本市に移り、そこでエプソンに就職する。エプソンはプリンターがメインの会社、浮世絵含め、すべて“印刷”とは奇遇だ。

 大阪の実家では母親が食事の支度をしてくれたので、浮代さんはほとんど料理をしたことがなかった。夫は、ヨーロッパの日本料理店の厨房で働いていた経験を持つ。そんな夫が「料理は俺が教えるから」と基礎から教えてもらったのは、ありがたかった。ただし、嫁ぎ先の台所には和の調味料しかなく、胡椒もない。同居の義父は、塩・みそ・しょうゆ・砂糖を使った和食しか食べない人だった。

「ケチャップやソースを使った料理は作れない。大阪は粉もんソース文化ですから、カルチャーショック。薄口しょうゆもなかったですね」

 さらに、義母の月命日に親戚一同が集まる食事会があり、10人前くらいの料理を作る必要があった。

「近所に住む義姉が、鍋いっぱいに煮物とか作ってきてくれるんですよ。おばさんたちも作り方を教えてくれる。助かったし、鍛えられました」

 食べ慣れた信州のものしか食べない義父は、野沢菜漬を自分で仕込んでいた。2月の寒い時季に大きなバケツに3つも4つも漬けた。

「売っている野沢菜とは味が全然違う。すっごくおいしいんです。親戚のおばさんたちに、発酵させたり天日に干したりして作る保存食をいくつも習いました」

 この経験が後に江戸料理研究のベースとなる。

 40歳で子宮外妊娠し、子どもを諦め“このまま何も残さず終わっていいのだろうか。やっぱり書きたい”との思いが強くなる。

「講談社の時代小説大賞に応募したとき『キャラは立っているけど、構成力が弱い』って言われたんです。構成力を勉強するのなら、シナリオがいいだろうと思い、日本シナリオ作家協会の通信教育を受けました」

 課題の原稿を書いて送り、添削されて戻ってくるシステム。半年後の最終課題が2時間ものの映画のシナリオだった。浮代さんは、勝山太夫という元禄時代に実在した男装の麗人を主人公に、時代劇のシナリオを書いた。それは、新人脚本家の登竜門である大伴昌司賞の佳作に残った。

「シナリオ協会の理事をやっていらした新藤兼人監督が、私の作品を推してくださったそうです。その後監督が『少数精鋭で私が教える』とおっしゃって、選ばれた3名の中に私も入ったんです」

 月に2回、松本から上京し、新藤監督のもとで、半年間シナリオを学んだ。そして見事、大賞を受賞。

「夫には“大賞を受賞したら東京に出るからね”と言っていたので、エプソンを辞めて、単身上京しました。東京に行けば、何とかなると思ったのも、甘かったですね」

 浮代さんは、脚本家の下で学びながら、仕送りで生活していた。

「先生が高齢で引退され、その後、離婚。さあ、これからどうしようかと思ったころ、ボジョレー・ヌーボーのパーティーで柘いつかさんに出会ったんです」

 この出会いが、浮代さんの人生を大きく変えていく。

城下町岩槻・鷹狩り行列に参加。小十人という徳川家康のSP役
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