きら星のごとき江戸文化を世に送り出した蔦重を主役に書きたいと願って
実は浮代さん、30年も前から蔦重に惚れ込んでいた。
「浮世絵のことを調べれば、必ず蔦重が出てくる。江戸時代の出版文化で、どんなに重要な役割を果たしてきたかもわかります」
しかし、これまで喜多川歌麿や葛飾北斎らの有名浮世絵師や、山東京伝や曲亭馬琴などの戯作者の陰で、蔦重自身はあまり注目されなかった。彼らの才能を見いだし、プロデュースし、ヒット作を生み出したのは蔦重だというのに。
料理をはじめとする江戸文化で知られるようになった浮代さんは、10年前に『蔦重の教え』を出版した。この本は、現代から江戸中期にタイムスリップしたサラリーマンが、蔦重のもとで働くというエンターテインメント作だ。版を重ねて、文庫本にもなっている。
浮代さんにとって蔦重の魅力はどこにあるのか?
「すごいアイデアマン。それまで誰もやらなかったことを、どんどん実現した人です」
吉原で生まれ育った蔦重は、廃れかけの地元のために何とかしたいと思う。でも、お金はない。だったらアイデアと行動力だ。
「今で言うクラウドファンディングで資金を集め、プレミアム本を作るんです。その絵を描いたのが有名絵師で、序文は平賀源内。弱冠23歳、貸本屋をやっている若造が、手塚治虫にイラストをお願いするようなもの。物おじしないでアタックしています。お茶屋さんで育っているから、人当たりがよくて、大物にも好かれたんですね」
“人たらし”だけど“人に媚びる”タイプではなかった。
「才能ある人に力を貸すことを惜しまなかったんです。腕があるのに腐っている北斎や歌麿に住まいや仕事を与え続け、ちゃんと面倒も見て」
十返舎一九も山東京伝も、曲亭馬琴も、蔦重に見いだされ、戯作者として名を上げる。
日本で初めて作家に原稿料を払う制度をつくったのも、広告を載せ、付録をつけたのも蔦重だといわれている。
浮代さんは、そんな蔦重の魅力を何冊もの本で紹介している。蔦重のお墓がある浅草の正法寺の住職・佐野詮修さんは『蔦重の教え』を読んで、浮代さんのファンになった。佐野住職は、ゆっくり丁寧に話してくれた。
「この本はフィクションだけど江戸時代の生活がリアルで、他の小説にはない魅力を感じました。台東区の講演会でお会いして、お話しさせていただいた。穏やかで話しやすい方で感激しました。その後はメールのやりとりをさせていただいているんですよ」
浮代さんの本は、昨年末に出たものまで読んでいる。
「すべて蔦重をテーマにしていますが、一冊ごとに趣向が違うので、どれも楽しませていただいています」
関東大震災や空襲で元の墓は現存していないが、記録は残っており、現在の墓は史料を元に復刻されたもの。
「ドラマのおかげで、お参りの方が増えてくれました」
正法寺も火災で焼けているが“火事と喧嘩は江戸の花”と言われるくらい、江戸時代は火事が多かった。浮代さんは言う。
「2、3年に一度大火事があるから、みんな刹那的に生きているんです。大きなものは持って逃げられないから、持って歩ける根付など小さなものに人気が出た。超絶技巧、細密技法になっていくんです。江戸っ子が人をびっくりさせることに情熱を傾けていたところも、面白いですね」
蔦重も人を驚かせることを考え続けて江戸に出版文化の花を咲かせたが、47歳の若さで脚気で亡くなる。浮代さんは、次のように考えている。
「田沼時代は宴会料理を食べていても、松平定信の寛政の改革以降はそれもなく、激務に追われて、白米のおむすびやご飯と漬物などばかりを食べていたのでしょう。このころ糠漬けはまだ広まっていないですから、ビタミンB1がとれなかったんですよね」
記録によると、江戸時代の成人男性は1日に白米を五合食べていたらしい。脚気は、“江戸患い”とも言われ、白米偏重の江戸っ子特有の病気でもあった。
「江戸後期になると、ご飯とみそ汁に糠漬け、焼き魚に惣菜などのおかずも庶民の食卓に上ります。これは、世界一の健康長寿食。日本人のDNAには、米をエネルギーに変えるアミノ酸があります。ちゃんとお米とみそ汁を食べてほしいですね。食もそうだし、日本文化って素晴らしいんです。今、外国の方が日本に興味を持ってたくさんいらしていますが、日本人自身がもっと日本の文化に誇りを持ってほしい」