中森家は両親を含めて8人家族で、明菜は6人きょうだい(2男4女)の5番目として生を享ける。家族を養うため、明男さんはかつて、東京・大森で精肉店を営んでいた。
「厳しいけど、根は優しい愛情深い人でした。私が小さいころは、牛の半身を担いで冷蔵庫から出し入れする父の姿を見て、ギリシャ神話に出てくるヘラクレスのようだと思っていました。でも今回、焼き場で骨を拾った際は“骨もこんなに細くなっていたんだ”と家族で話しました。みんな“あんなに逞しかった人が……”と思ったはずです」
そこに明菜の姿はなかった。関係者を通じて連絡したが、何の返答もなかったという。
明菜と最後に会ったのは、1995年に母・千恵子さんが亡くなる前日か、その葬儀だったか、長い月日がたち、あいまいだ。だが、明菜と中森家との断絶は、最愛の母の死後に始まる。その理由について、実兄はこう説明する。
家族を断絶させた「明菜のカネ」の真相
「明菜は“家族が私の稼いだお金を使い込んだ”と思っているのでしょう」
1982年5月、16歳でデビューした明菜は、瞬く間にトップスターへと駆け上がり、莫大な収入も得たという。絶頂期だった1987年、明菜は約1億円の借り入れをして、埼玉県内に地上3階建てのビルを建設。明菜の父親や兄たちは、ここで飲食店を開店させる。当時を知る関係者には、
「家族が開店資金などに明菜の金を使い込んだはずだ」
と話す人もいたが、これを実兄は真っ向から否定する。
「ビル自体は明菜のお金で建てましたが、土地の権利はもともと父が持っていたんです。芸能の仕事は、いつどうなるかわかりません。心配だった父は、歌手の仕事がなくなっても、家賃収入で生活できるようにと建てたのです。飲食店の開店資金は、父方の遺産を充てました。だから、明菜の思っているような使い込みはありません。ただ、明菜とは連絡が取れませんから、誤解を解くこともできないでいます」(前出・実兄、以下同)