フリーになった後は漫画家と名乗っていたが、舞い込んだのは舞台の司会や構成、ラジオの脚本、テレビ出演─。
なぜか、経験のない仕事をよく頼まれたのだという。人気歌手だった宮城まり子さんは、取材で2度会っただけのやなせさんに、リサイタルの構成を頼んできた。
絶望から生まれた「名曲」
まだ20代だった永六輔さんが訪ねてきて、「僕の作・演出でミュージカル『見上げてごらん夜の星を』をやります。その舞台装置をお願いしたい」と切り出した。
やなせさん自身もその理由は「わからない」と首をひねるが、それだけ多才で、人をひきつける魅力があったのだろう。
華やかな経歴に思えるが、意外なことに、内心は失意と絶望の連続だった。当時のことを聞いても、
「もう、あんまり昔だから忘れちゃったよ」
と冗談めかすが、著書『絶望の隣は希望です!』には、こんなふうに記している。
《ずーっと何年ものあいだ、「自分は何をやっても中途半端で二流だ」と思い続けていました。漫画家なのに代表作がないことが致命的なコンプレックスとなって、50歳を過ぎても、まだスタート地点をうろうろしているような気持ちでした》
夜中に取り残されたような寂しさに襲われ、何げなく懐中電灯を手に当ててみた。血の色が赤く透けて見える、これほど絶望していても、変わらずに真っ赤な血は熱く流れている。ふと頭に浮かんできたのが『手のひらを太陽に』のフレーズだ。
作曲家のいずみたくさんに曲を依頼。翌1962年にNHKの『みんなのうた』に採用されると全国に広まり、歌い継がれている。
妻の暢さんを乳がんで亡くし、天涯孤独になった。日常生活のすべてを妻に頼っていたやなせさんは、夜も眠れなくなり、どんどん体重が落ちた─。
「カミさんが亡くなって、俺ももうボツボツ死ぬなぁと思ってね。死ぬ準備をしたんです。うちにあるいい本やカミさんの残したお金を寄付して。ところが、アンパンマンに助けられたというか、また、帰ってきたんだよ」