大学2年で脚本家デビュー
'46年に東京に戻る。倉本さんは中高一貫の男子校、麻布中学を受験して入学した。コンクリート3階建ての校舎の屋上からは、一面の焼け野原が見えた。
麻布は自由奔放な校風で演劇が盛ん。上級生に小沢昭一、フランキー堺らがいて、倉本さんは演劇部の手伝いをした。作文を書くのも好きで、言論部に所属して学童疎開の体験を小説に書いたりした。
父は出版業を再開したが、自然科学系の本は売れない。衆議院議員も務めた祖父が残した国債は敗戦で紙くず同然になり、生活は苦しかった。
倉本さんが高校2年生のとき、父の狭心症が悪化。ある日、ひどい発作に襲われた。
「家族みんなで賛美歌を歌ったあと、父は“あー、来た来た来た”とつぶやいて苦しみだした。僕は医師の伯父に命じられて、父の胸の上に乗っかって、“父さん、父さん!”と必死に呼びかけながら、心臓マッサージをしました。
父が息を引き取ると、母は人払いをして濡れタオルで身体を拭きました。親父のおちんちんを一生懸命拭いていたのが、すごく印象に残っています。ああ、これはおふくろのものだったんだなあと」
2浪して東京大学文学部に合格した。倉本さん自身には東大へのこだわりはなかったが、母の願いだった。
「うちは親父も兄貴も東大だったから。おふくろには腹違いの兄への対抗意識があったんじゃないんですかね。でも、浪人中、僕はメチャクチャでしたね。予備校にも行かないで、新宿で映画ばかり見てましたから(笑い)」
欧米の映画が日本で続々と公開されると、若者をとりこにした。倉本さんは映画シナリオに日本語訳をつけた冊子を、小遣いをやりくりして買った。脚本の書き方を学びたかったからだ。
東大入学後も勉強はそっちのけ。アルバイトをしながら劇団『仲間』の文芸部に籍を置き、脚本の習作を次々と書いた。ほぼ同時期に『仲間』に入ってきたのが、妻の平木さんだ。倉本さんが27歳のときに結婚した。
倉本さんがラジオドラマで脚本家デビューしたのは大学2年のとき。4年の冬に15話のラジオドラマを書き、倉本聰というペンネームを初めて使った。
取材・文/萩原絹代 撮影/渡邉智裕
※「人間ドキュメント・倉本聰」は4回に分けて掲載しています。他の記事は関連記事にあります。