もしもあのときAEDがあったら、彼は助かったかもしれない……。多くのファン、選手に愛されたサッカー元日本代表・松田直樹の訃報が全国を駆け巡ったのは5年前の夏のこと。悲しみの中、愛する弟の最期を看取った姉は今、ひとりでも多くの命が救われることを願い、自らも新たな1歩を踏み出した──(人間ドキュメント・松田真紀さん/第2回)

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[写真]ドリームマッチ会場に掲げられた松田の横断幕。今でも多くのサポーターから愛されている
[写真]ドリームマッチ会場に掲げられた松田の横断幕。今でも多くのサポーターから愛されている
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 猛暑の'11年8月2日、長野県松本市─。

 前年の12月に16年間過ごしたJリーグの名門、横浜F・マリノスから戦力外通告を受ける屈辱を味わった松田直樹は、ジャパンフットボールリーグ(JFL)に所属していた松本山雅で第2のサッカー人生を踏み出していた。当時のJFLというのはJ1の2カテゴリー下の3部リーグ。クラブハウスもなければ練習場所も一定しておらず、選手の多くがアルバイト生活を強いられていた。発展途上のこのクラブで再起を図った彼は、チームメートにも地元の人々にも温かく迎えられ、この年のJ2切符獲得、そして最終的にはJ1昇格を本気で目指していた。

 この日、松本山雅は午前9時から、郊外にある「梓川ふるさと公園多目的グラウンド」でトレーニングをスタートさせた。前日がオフだったため、この日はフィジカルトレーニングがメーン。真夏の暑さの中、15分間で3kmを走るという、負荷の高いランニングが行われていた。

 その走りを2周遅れでゴールした松田は「ヤバイ、ヤバイ」と呻きながらいきなり倒れた。チームメートたちはいつものように冗談かと思ったが、明らかに様子が違う。

 急性心筋梗塞――。

 そのまさかが現実になってしまったのだ。

 異常事態を察知し、山雅スタッフが人工呼吸をしたり、近くにいたチームメートやサポーターが声をかけたり、練習を見ていた看護師の女性が心臓マッサージを施したが、彼の意識は回復しない。救急車が到着し、信州大学病院に搬送されるまで50分もの時間が経過していた。

 同年の松本山雅は信州大学病院に隣接する人工芝グラウンドでトレーニングを行うことが多かった。けれども、この日は夏休み期間中でほかの利用者がいて使えず、市内のあらゆるグラウンドも埋まっていたため、郊外のグラウンドで練習せざるをえなかった。そしてここにはAEDがなかった。まさかの不運が重なって、松田のアクシデントはより重篤なものになってしまったのである。

「直樹が心肺停止という連絡があったんだけど……」

 同日10時過ぎに母・正恵さんからのショッキングな一報を受けた真紀さんは伊香保温泉にいた。趣味のフラダンス仲間数人と前日から泊まりがけで出かけていたのだ。

「前の日から何となく“おかしいな”と感じるところはありました。伊香保へ行く途中に車のエアコンが壊れたり、温泉に入っていても不安な気持ちに襲われたりしましたから。お母さんのメールで“心肺停止”って言葉を見たとき、いったい何が起きたかわからなかった。急いで家に戻り、お母さんを乗せて松本へ向かいました。“いったん帰って来れるよね”と、ろくに荷物も持たずに出発しました。直樹のことがインターネットのニュースに出た12時ごろは、まだ車を運転している最中でした」

 数時間かけ搬送先の信州大学病院に到着。病室に入ると、人工心肺や点滴などいくつもの管につながれ、治療を受けている弟の姿が目に飛び込んできた。正恵さんが瞬く間に号泣、彼女自身も涙があふれ出た。

 真紀さんは言う。

「私が救急救命医さんに“どうなんでしょう”と状態を尋ねると、その医師も私が看護師だとわかったからか“正直、厳しいですね”とストレートな言葉が返ってきました。ただ、実感は全然、湧かなかったですね」