今でも鮮明に覚えている息子の言葉

社会人では富士通に所属。引退後も同社で陸上にかかわる部署に
社会人では富士通に所属。引退後も同社で陸上にかかわる部署に
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 中学生になった竜二少年が告げたことを、母親の次枝さんは今も鮮明に覚えている。

「“俺は球技に向かん。だから陸上をやる”って始めました」

 中学時代も高校時代も、目立った成績を残したわけではなかった。だが、大学指導者の目は、いわき市の無名の才能を見逃さなかった。

 東洋大学のスカウトと柏原選手が、JR内郷駅前の喫茶店で話している姿を、マスターが覚えていた。

「最初は柏原くんひとりだったの。うつむき加減で静かな感じの子だったけど、芯がしっかりしてちゃんとしてるなって思いました。2回目は母親も一緒に話をしてました」

 柏原選手を見いだしたのは、東洋大の指導者の佐藤尚コーチ、酒井俊幸監督だった。

「高校(佐藤修一先生)や大学の先生方には本当に感謝しています」と頭を下げる母親は、大学進学当時のことを次のように振り返る。

「うちの子はみな、そうなんですが、大きく間違ったことがなければ、特に親が口出しすることはないんです。陸上をやることも、大学に進学することも、すべて本人に任せてきました。うちは経済的な余裕もないですから、本当なら高校を出たら働いてもらおうと思っていたくらいです」

 大学で柏原選手の才能は一気に開花。1年生で出場した第85回箱根駅伝で、その名を全国にとどろかせた。

 往路5区の山登り。トップの早稲田大学とは約5分差の9位で襷を受け取ると、目を見張るような快進撃。前を走る選手を全員抜き去る区間新で往路優勝を飾ったのだ。

 その雄姿を、地元の寿司店に集まって応援する一団に、柏原選手の父親の姿もあった。

 店の主人が明かす。

「小さいころから親父さんに連れられて来てね。あんまり話す子ではなかったけど、なんでもよく食べる子だったよ。今年も勝つだろうなんて話すと、親父さんは“勝負事だから終わってみるまでわからん”って心配していてね。5区を走って優勝したときは、みんなでバンザイしたもんだよ。親父さんもうれしそうに竜二に電話してね」

 スポットライトを浴びるランナーに成長したが、その裏で苦労もあった。