乳がんが発覚し1年間の休職
トップVIP担当のCAとして順風満帆なキャリアを重ねていた里岡さんだったが、2006年、人生最大の試練が訪れる。乳がんと診断されたのだ。41歳のときだった。
前年に母が乳がんを患っていたこともあり、誕生日を迎える2月にマンモグラフィー検査に行ったところ、画像を見た先生がみるみる深刻な顔つきになった。
「細胞をとって再検査に回しましょう」と結果を待つこと1週間。この1週間が、里岡さんにとって最もつらい日々だった。
「あまりにも思いがけない出来事だったので、その衝撃が大きかったですね。両親が悲しむことを想像したら涙があふれたこともありました」
結果は、乳がん。しかし、すでにこのとき里岡さんは気持ちを立て直しつつあった。オペの日どりを1か月後の4月に予約し、上司に事情を説明したうえで1週間だけ休みをもらった。
「お休みした1週間は、 “前向きな1週間” でした。今、どんなに悲しんでも、病気の事実が変わるわけではない。そもそも乳がんになったのは、誰のせいでもない。たまたま私の人生に起きたことです。だから私は、 “なんで、私が?” とは1度も考えませんでした。個室での入院が決まっていたので、好きなアロマやお気に入りのパジャマなどをそろえていました。手術後、起こりうることなどを調べる時間にもあてました」
死に対する恐怖に過度に怯えるのではなく、元気になってまた働くために、「今」に焦点をあて、今すべきことに思いを巡らせる。この考え方は、いかにも「今を生きる」里岡さんらしい。
その後、1か月のフライト業務を行い、4月上旬、乳がんの手術を行った。
手術は無事終わるが、結局、仕事に復帰できたのは1年以上たってから。里岡さんは、右の乳房を全摘出し、かつ、お腹の肉を移植して乳房を作る「同時再建手術」を行ったのだ。手術は、13時間にも及び、5か月してやっとまっすぐに立てるようになり、8か月してようやく2リットルのペットボトル程度の荷物が持てるようになった。それほど、回復までに時間がかかった。
「全摘出は、私が望みました。再発の可能性を残したくなかったからです。乳がんを摘出してくださった東京慈恵会医科大学付属病院(当時)の内田賢先生は、私の意を酌み同時再建手術をすすめてくださいましたが、当初、私は拒否しました。美観上の理由だけで乳房を作るのはエゴだと思ったからです。けれど先生はQOL(クオリティー・オブ・ライフ)の観点から、今後の人生において、乳房があるほうがメンタル面でもいい影響を与えることを説明してくださいました。乳房の同時再建手術を執刀してくださったのは、形成外科の武石明精先生。2人には、感謝してもしきれません」
病院の先生しかり、同僚や友人しかり、「人の出会いに恵まれている人生です」と話す里岡さん。中でも、元UBS(スイス・ユニオン銀行)ジャパン会長のヴィットリオ・ヴォルピ氏は、里岡さんにとってメンターだという。
「25年ほど前、プライベートでJALで香港に行ったとき、廊下をはさんで隣に座っていたのがご縁で知り合いました。以後、偶然に何度も出会うことがあり、そんなきっかけで親しくなったのです。私が乳がんになったとき、彼は、 “Life is Beautifl.だからこそ、精いっぱい生きなきゃいけないし、あきらめちゃいけないよ” と力強く言ってくれた。私にとって、大きな励みになりました」
過去に出会った人、出来事のすべて(病気でさえも)が、自分にとってかけがえのない、学びや喜びの根源であったという。