史上初の“クールなヒール(悪役)”としてプロレス界を席巻し、一大ブームを起こした「黒のカリスマ」こと蝶野正洋(54)。帰国子女の坊ちゃんから、三鷹の不良、大学を蹴って入ったマット界、不遇の海外武者修行中に出会った運命の妻、帰国後の大成功、若すぎる盟友の死などを経て今、社団法人を立ち上げて救命救急の普及に尽力する……。波瀾万丈すぎる蝶野の人生に迫る!
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6万人の東京ドームが沸騰するほどの熱気のなか、サングラスに足首まである黒いガウンをひるがえして入場する鍛え上げられたプロレスラー。“黒のカリスマ”蝶野正洋の入場だ。
54歳となる現在、現役のレスラーとしては第一線を退いているものの、アドバイザーや解説者として今もプロレスを支え、タレント業やファッションブランドの経営、そして救命救急に関わるボランティア活動、さらには2児の父として忙しい毎日を送っている。
新日本プロレスの黄金期を支えた大スターとして、蝶野はまさにプロレスの申し子に思える。しかし、レスラーになったのは、本当に偶然であり、挫折を抱えた思春期の暗闇のなか、たったひとつ、手にした希望だったのだ。
渋谷の坊ちゃんから伝説の番長に
蝶野は1963年、父のアメリカ駐在中、シアトルで生まれた。医者の家系でお嬢様育ちの優しい母、夜中まで働く猛烈サラリーマンの父のもと、育てられた末っ子の蝶野はとびきり甘えん坊だった。
2歳で帰国して渋谷に暮らし始めると、エリート家庭の子どもばかり。将来は「大学を出て、俺も親父と同じサラリーマンになるんだろう」と考えていた。小学6年生で、三鷹の小学校に転校するまでは。
渋谷と三鷹。同じ東京ではないのか? そう尋ねると蝶野は笑って言った。
「昔の三鷹を知らないでしょう? 田んぼだらけの田舎で、何よりも人種が違う。いきなり隣のクラスの番長がやってきて、『腕相撲』を俺に挑むんだ」
当時、三鷹の子どもは強さがすべて。それで友情を築いている。学力重視の渋谷からは衝撃だった。なにしろ渋谷の進学塾ではビリだったが、三鷹の小学校では優等生に。 そのギャップに慣れるだけでもひと苦労なのに、番長となった蝶野は大変だった。
遠足などで仲間が他校の学童とケンカになれば、番長として出ていかなければならなかったし、一方で遊びの計画を率先して立てたりもした。面倒見のよさは、このころ培われたのだろう。
中学では頭はアイロンパーマ、剃り込みにボンタン。不良街道をまっすぐに突き進む傍ら、サッカー部を立ち上げ主将として活躍した。当時の夢は世界で活躍するサッカー選手だった。
「どこかで俺は、アメリカ生まれという意識があったんだろうね。ワールドカップを夢中になって見て、いつかブラジルに渡って世界で活躍したいと」。もちろん高校は私立のサッカー強豪校にスポーツ推薦で行く予定だったが、筆記テストでまさかの不合格。点数が足りなかったのだ。
最初ともいえる大きな挫折にショックを受けた。高校浪人の危機もあったが、誰も知らないところで、やり直したいと三鷹から離れ、多摩の都立高校の門をくぐる。
ところが「あの高校に三鷹の蝶野がいるらしい」と、口コミで瞬く間に伝わり、三鷹を離れても不良は寄ってくる。さらにバイクの魅力には抗えず、誘われるまま暴走族に。それでも家ではいい子だった。週末、「パパ、ママ、おやすみなさい」と挨拶がすむと、部屋に隠してある特攻服に着替えてバイクで集団暴走をしていた。
「ある日、親父に“何だその格好は? 日の丸もつけて”と聞かれて、“清掃作業の手伝いに行くんだよ”という俺の嘘を信じてくれたのは、親父は当時の不良の服なんて知らないし、うちの正洋が悪いことをするわけがないと思っていたんだろうな」
蝶野家のかわいい次男坊でありサッカー部主将、暴走族に番長と、裏も表も充実した高校生活を送る蝶野だったが、「卒業が近づくと仲間たちは不良を引退し就職や進学を決めていた。リーダーの俺だけが取り残されていた」。