宮城県石巻市の大川小学校(当時、全校児童108人)では、大津波が襲った時間に学校にいた児童は78人。このうち74人が死亡・行方不明となった。
つまり、生存児童は4人。そのうち当時、小学校5年生の只野哲也さん(19)は津波にのまれ、気がつくと土に埋もれていた。泥の中から必死で這い上がり、雪の中を裸足で走り抜け助かった。
母・妹・祖父との別れ
“奇跡の生存者”としてメディアに取り上げられていた“てっちゃん”も、いまは大学生。まだ漠然としているものの、将来のことも考え出した。
午後2時46分に地震があった。大川小のある地域は震度6弱。5年生のクラスでは帰りの会をしており、「さようなら」を言う前に地震が起きた。教室は2階で1度は机の下に隠れた。その後、体育館に向かう手前で階段を下り、校庭に避難した。
妹の未捺さん(当時9歳で小学3年生)とともに校庭にいたところ、母親のしろえさん(当時41)が自宅から迎えにきたが、忘れ物を取りに戻った。それが哲也さんが母の顔を見た最後になった。
校庭で待機中、危険を察知し「山さ、登っぺ」と言っていた児童もいた。しかし、教職員たちは避難方針を決めかねていた。このため地震発生後、50分間、児童たちは寒い中、校庭に放置された。ようやく避難を開始したのは津波がくる1分前だった。
哲也さんは奇跡的に助かるが、多くの友達を亡くした。そのことは、その後の中学・高校の学校生活にも影響をもたらしたという。
「中学卒業とか、高校卒業とか、節目のときには友達のことを考えましたね。“生きていれば、どこの高校へ行ったのかな?”“頭がよかったのかな?”って。高校へ進学したとき幼稚園の同級生と再会したという友達がいました。でも、僕には付き合いの長い友達がいません。石巻市内の別の場所に引っ越したから、中学校では小学校の同級生はいないんです。
そういう長い付き合いはうらやましいと思いましたね。震災がなければ、普通に過ごせたはず。震災後は子どもが子どものままでいられない感じだった。わがままやったり、ばかやったりできなかったです」