「第6位、筑波大学!」

 10月26日、東京・立川の昭和記念公園に、この日いちばんのどよめきが起こった。26年ぶりに、箱根路に桐の花が咲く──。第1回大会(1920年)で優勝した東京高等師範学校の流れをくむ筑波大が、出場切符をつかんだ瞬間だった。

箱根駅伝は別世界だと思っていた

「自分だけでなくチーム全員が実力を出し切れた。感極まって泣きました。本当に報われました」

 そう語るのは、医学群医学類5年・川瀬宙夢(ひろむ)選手だ。医者の卵が箱根駅伝を走るのは、おそらく戦後初となる(※3年の田川昇太選手も医学群医学類)。

 医者を志したのは、中学2年生のとき。

「陸上部でしたが、サッカーも好きで。『ユーロ2008』を見ていたら、ケガした選手に駆け寄る医者がいて。“なんで医者?”と思ったら、スポーツドクターでした。医者として帯同するチームや選手が日本一や世界一になれたらすごく面白いだろうなと思ったんです

 夢を膨らませ、文武両道の愛知県立刈谷高校へ。3年時には3000m障害でインターハイに出場。

「でも、予選で失格してしまって。陸上は高校までと思っていたけど、このままでは終われない。大学でも続けようと決めました」

 関西や東海地区のいくつかの大学から陸上での誘いはあったが、“医者になるから”と、親にその話をする前に断った。

「当時、陸上の強豪は関東に集中していて。かつ、経済的な理由から国立一択。おのずと、志望校は筑波大になりました」

 一浪を経て見事、合格。しかし勉強漬けの日々により、全然走れない脚になっていた。

「まずは陸上同好会に入りました。そこでだんだん調子を取り戻し、2か月遅れで陸上競技部に入部しました」

「入学したころ、箱根駅伝は別世界だと思っていました。憧れはありましたが、自分には無理だろう、とも。下級生のときは、箱根当日には大手町でプログラムを販売していました。レースは録画で見るわけですが、悔しくて途中から見られなかったですね」

 駅伝主将を務めた昨年も、予選会は17位。

「そもそもウチの陸上競技部は、インカレで男女で総合優勝することがいちばんの目標なんです」

 一般には知られていないが、筑波大はハンマー投げや短距離走などでは学生トップレベルを誇る。

「“箱根になんて行けるわけがない。それより個人でインカレを目指す”という選手も少なくなく、春先は足並みが全然そろっていませんでした」