6月8日。この日は、日本中を震撼させた大きな事件がふたつ起きた日である。
ひとつは、平成13年の大阪の附属池田小学校事件。もうひとつは平成20年に起きた秋葉原無差別殺傷事件だ。
身勝手な動機から無関係の見ず知らずの人々を次々に殺傷したこの2つの事件で、犯人はいずれも死刑判決が確定しているが(附属池田小の加害者は2004年に死刑執行)、この事件までにもその後も無差別殺傷、通り魔事件というものは繰り返されてきた。
昭和・平成・令和と時代の移り変わりとともに、過去の事件と浮き彫りとなった問題点を振り返ってみたい。
繰り返されてきた凶悪事件
通り魔殺人、というと若い世代の人々は秋葉原の事件を思い出すだろうが、昭和56年に起きた深川通り魔殺人は犯人の強烈な人格やエピソード、逮捕時のブリーフにハイソックスという姿、そして被害者に幼い子ども2人が含まれていたことなどから今なお語られる有名事件である。
昭和の終わりから平成にかけて、3人以上が殺害されるという死刑待ったなしの事件においても、それが無差別、通り魔的犯行の場合、死刑が回避されるケースが多かった。
そもそも無差別に通りすがりの人々を殺傷するなど到底理解できない事件であり、精神鑑定がなされた結果、犯人がいわゆる心神耗弱、心神喪失状態と認められることが多かったからである。深川事件でも、4人殺害ながら刑法39条に照らして求刑自体が無期懲役となっている。
しかし、中には捜査段階で心神喪失と認められ、起訴すらされない事件もあった。
1984年(昭和59年)に横浜で高校生4人が車にはねられ、降りてきた男に刃物で刺されるなどして一人が死亡した事件でも、犯人の男は心神喪失で不起訴となっていた。その後、遺族が検察審査会に審査を申し立て、不起訴不当の判断を得るも、再捜査を経てもなお、男の不起訴は覆らなかった。
1985年(昭和60年)、下関市の民家で母親を殺害した男が、そのまま凶器の日本刀を手に近隣の家に押し入って家人らに斬りつけ、さらには表の通りを歩いていた通行人を斬りつける事件を起こした。幼児を含む11名を死傷(うち4人死亡)させるという、日本中を震撼させる事件だったわけだが、男には通院歴があった。これだけ大きな事件であるにもかかわらず、逮捕後の報道はほとんどない。
そして1990年(平成2年)、松本市でゲートボールをしていた高齢者らを金属バットで襲い3人を殺害、1人に大けがをさせるという無差別殺傷事件が起きた。逮捕されたのは当時大学生だった21歳の若者。ほぼ即死だったという被害者の状況からも、強烈な殺意を見ることができた。
しかし彼もまた、心神喪失で不起訴となった。遺族らは、「犯人を遠くへ連れ去ってほしいと願うだけ」と言うしかなかった。
犯人に通院歴があるとわかるや否や、あたかも被害者であるかのように手厚い保護のベールに包まれてしまい、事件自体が報道されなくなってしまう、そんな時代が続いた。精神的な問題を抱える人やその家族もまた、こういった事件が起こるたびに偏見に晒され、十把一絡げにされてつらい思いを強いられていた。
2005年(平成17年)、香川県で28歳の男性が刃物で襲われ殺害される事件が起きた。国道沿いのレストラン駐車場で白昼に起きた惨劇。逮捕された男は被害者と面識はなく、「誰でもいいから殺そうと思った」と話していた。男は精神科病院に入院中だったが、いわゆる開放病棟に入院しており、ある程度自由に外出ができる状態での犯行だった。
男は懲役25年という判決を受けたが、遺族らは「病院が適切な判断をしていれば事件は防げた」として病院を提訴、その責任を問うた。それは、精神に問題を抱える人々が全員著しく危険なのではなく、適切に保護、治療し、状態に応じて対処することの重要性を問うたものとも言える。
しかしその裁判で、病院側の責任は一切認められなかった。
同じく2005年に愛知県の商業施設で起きた通り魔殺人では、幼児1人の命が奪われた。被害者に刺さった刃物が抜けなかったことで刃物による被害は一人だけだったが、もしも抜けていたらさらなる犠牲者が出ていた可能性があった。
男は心神耗弱が認められ懲役22年が確定したが、この事件では、犯人の男が別の事件で服役していた刑務所を仮釈放となっていたこと、保護施設から抜け出していたのに捜索されていなかったことなどが問題視された。同時に、不足する保護司の実態そして、保護観察の身でありながら所在不明となっている仮出所者の多さなど、更生を支える人々の苦悩も浮き彫りとなった。
出所前からある症状を見せていたという犯人の男だったが、医師による診察は行われないまま仮釈放となっていたことも仮釈放の審査の在り方に一石を投じた。