暮れの定番番組『第64回輝く!日本レコード大賞』(主催・日本作曲家協会など)がTBSで30日午後5時30分から放送される。
過去、レコ大は数々の話題を提供してきた。五木ひろし(74)の『ふたりの夜明け』と八代亜紀(72)の『雨の慕情』が大賞を争い、八代が勝った1980年(第22回)の「五八(ごっぱち)戦争」などである。だが、その中で今も関係者の間で語り継がれる最大の「事件」は大賞確実と言われた故・美空ひばりさんの落選にほかならない。
美空ひばりさんが大賞受賞を逃した裏話
1989年(第31回)のことだった。この年の1月7日に昭和は終わり、それを見届けたひばりさんは同6月に52歳で亡くなった。それでも同1月11日にリリースされたひばりさんの遺作『川の流れのように』はヒットを続け、ミリオンセラーを記録する。同12月上旬にはレコ大の金賞(大賞ノミネート作品)に選ばれた。
故人に大賞は与えないという規定はないため、「新聞社とスポーツ新聞社の音楽担当記者から選ばれた審査員と音楽評論家系の審査員の間では『もう大賞はひばりさんで決まり』という雰囲気で満ちていた」(元スポーツ紙音楽担当記者)という。
ひばりさんは終戦2年後の1947年、焼け跡の中で歌い始めた。その後、不祥事を起こした弟のせいで世間から袋叩きにされても懸命に家族を守り続けた。早過ぎる晩年に大病で倒れようが、仕事である歌を止めようとしなかった。座右の銘は「今日の我に明日は勝つ」。まさに昭和そのもの。その昭和が終わった年にひばりさんが大賞を受賞することは多くのファンも望んでいた。
一部スポーツ紙がレコ大の当日前に「ひばりさんがレコード大賞受賞へ」と報じたほど受賞は間違いないと思われていた。ところが、フタを空けてみると、大賞を得たのはデビュー2年目だったWinkの『淋しい熱帯魚』だった。
「音楽記者の審査員と評論家の審査員は仰天した。『淋しい熱帯魚』も売れたし、良い曲だったが、あの年ばかりは、ひばりさんの『川の流れのように』しかないと思っていた。主催の作曲家協会もそう考えていたはず。ひばりさんの歌唱力は晩年まで圧倒的でしたし、この年の7月には国民栄誉賞まで贈られていたのですから」(同・元スポーツ紙音楽担当記者)
なぜ、番狂わせが起きたのか? 審査員が誰に投票したのかは分からない仕組みになっていたものの、当時はTBS系列局から出ていた審査員26人による組織投票が疑われた。作曲家協会の主催ながら、あのころは大量にいるTBS系列局の審査員の力が強かった。
「『淋しい熱帯魚』に大賞を獲らせたい勢力が系列局の審査員たちに猛アピールしたのではないかと言われた」(同・元新聞社音楽担当記者)
猛アピールの中身は分からない。ただし、当時の賞レースを知る元レコード会社幹部はこう証言したことがある。
「あのころのレコード会社の人間は審査員を飲食店やゴルフに連れて行きました。もちろん、費用はこちら持ちです」(元レコード会社幹部)
この番狂わせを作曲家協会側も深刻に受け止め、翌1990年(32回)からはTBS系列局の審査員を26人から16人に大幅に削減。その影響力を抑えるためだ。
そもそもテレビ局の人間が賞の審査に当たるのは難しい。その歌手を番組に出演させる、させないが、投票の条件になってしまう恐れがあるからだ。
例えば歌手側から「投票してくれたら、あなたの番組には特別に出演させる」という話が持ち掛けられないとは限らない。相手は人気歌手なのだから、魅力的な話だろう。