マイクとペン。その2つだけをずっと操ってやってきた。マイクとペン。そこにちゃめっ気をのせられることが、最大の強みだった。
マイクはラジオ、ペンは活字。しゃべることと書くことで世の中を徹底的に遊び倒し、大人の娯楽や教養、洒落っ気やおふざけを放ち続けている。
立川志らくの運命を変えた⾼⽥⽂夫
今秋、十三回忌を迎えた落語家・立川談志師匠には「東京のお笑いはおまえに任せる」、そう遺言を残された。証言者は、談志師匠の弟子で「高田センセーが私の運命を変えた」と断言する立川志らく(60)だ。こう付け加える。
「高田センセーが目をかけた芸人は、みんな売れているんです、これはすごいこと」
「高田先生」ではなく「高田センセー」。現在は俳優としても活躍する伊東四朗(86)、戸塚睦夫さん(1973年、42歳で没)とお笑いトリオ、てんぷくトリオを組んでいたコメディアンの三波伸介さん(1982年、52歳で没)が司会を務めていた番組『三波伸介の凸凹大学校』(テレビ東京系)で、センセーは構成作家を務めていた。
俳句の授業のコーナーに「高田センセー」として登場し、三波さんが「うちのセンセー」と言い出したことがきっかけで、日本で唯一、カタカナの「センセー」が誕生した(ちなみに三波さんは大学の先輩だったため、センセーに優しくしてくれたという)。
日本大学芸術学部(日芸)卒業後に飛び込んだ放送作家の世界。「10年間で睡眠時間は8時間だった」とセンセーが大仰に多忙さを例える地獄の20代、『ビートたけしのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)での構成とたけしの相方としてさらなる多忙を極めた30代、40歳のときに始まり今へと続く『高田文夫のラジオビバリー昼ズ』(ニッポン放送)のラジオパーソナリティーとしての姿を通し、笑いに溺愛されたセンセーの核心へ迫る。
35年続くラジオでのルーティン
月曜日、センセーの1週間は『ラジオビバリー昼ズ』のオンエアから始まる。
「1日の時間割? そんなの普通だよ、アイドルじゃないんだから」と照れながらも明かしてくれたのは、朝8時起床、新聞を読み、ワイドショーをザッピングし、9時30分から朝食。10時半に、落語家の立川志らら(50)が運転する迎えの車に乗り、10時40分には局入りする流れだ。
「(放送前には)スタッフとバカ話をするだけで、打ち合わせはしない、もう35年だよ。反省もしない。放送したらそれでおしまい。(放送作家でタレントの)永六輔は『放送とは字のとおり送りっ放し』と言っていたからね」
オンエア後の午後は書斎で本を読んだり原稿を書いたり。夕方からライブに出かけたりするが、何もなければ7時には晩酌を楽しんでいるという。
ラジオ局でセンセーを迎えるのは、株式会社ミックスゾーンの山口美奈さん(60)。アルバイト時代から出たり入ったりしながら約30年ぐらい、『ラジオビバリー昼ズ』に関わってきた古参ディレクターだ。
「もしかしたら、高田センセーという人は3人くらいいるんじゃないか」と、山口さんは真顔で“高田センセー3人説”を唱える。「だって、追いつかないくらい『あれ見たか』『これ読んだか』と聞かれるんです。センセーはテレビも見ているし、ラジオも聴いている。その上ライブにも行く。とにかくマメ。おまけにご自身も出演する。3人どころか、こんな75歳いる?っていう感じです」と、毎週会うたびにドギマギさせられるという。実際にセンセーの吸収力は、高性能の感度に裏打ちされている、
「75年間、アンテナ立ちっぱなし。今がいちばん鋭いし、言っていることもいちばん面白い」
そう本人が自認するように、芸能界はもとより、世の中全般への感度が高い、高すぎる。