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 1960年代に“スパーク3人娘”と呼ばれ、国民的アイドルだった園まり、中尾ミエ、伊東ゆかり。それから約半世紀、園は、今年42年ぶりに映画出演を果たした。

 98歳という高齢の母親を介護しながら、現在、再び歌手として活躍中の彼女に半世紀を振り返ってもらい、母親の介護についても語ってもらった。

 42歳のときにマンションを購入し、初めてひとり暮らしを始めることになった園。新しい部屋でもう1度、歌をやり直したいと思った園は、部屋に防音設備を施した。自分のレパートリーに加えようと、森昌子やテレサ・テンの歌も練習したという。

「そもそもひとりで生活しようと決めたきっかけは、今まで他人にやってもらっていたことを全部自分でやろうと決めたからなんです。切符の買い方さえ知らなかったんですよ(笑い)」

 あるときテレビドラマの撮影で秘書役だった園は、お茶をいれるシーンで固まってしまった。それまでお茶をいれてもらったことはあるが、自分でいれたことはなかった。共演者やスタッフが見守る中で、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをしたという。

 所属プロダクションも辞めて、今まで経験したことがない生活が始まった。

「家の近くをウォーキングしていると、周りがとても新鮮に映るんです。公園の木々がそよぐ姿、風の音、日差しまで、見るもの聞くものすべてが新鮮で、なんてステキなんだろうって。初めて生きているんだなあって感じました」

 そんな生活が1年ほど続いたころに知人から誘われてミネラルウォーターのCMソングを歌うことに。ところが、歌っているのが『園まり』ということを伏せていたせいでかえって反響が大きくなり、皮肉なことに仕事のオファーが次々と入るようになってしまった。

 しかし、まだ地に足がついてない状態で芸能界に戻ってしまったら元の木阿弥と思った彼女は、仕事を断り、再び自分を見つめ直す生活に。

 そうして’03 年に歌手として本格復帰。翌年に“スパーク3人娘”を再結成して、’05 年からはコンサートツアーを再開し、年間20本のライブをこなしている。

 今は仕事がすごく楽しいという園だが、それはいろいろなことで挫折を味わい、喜怒哀楽を感じ、やっと人に寄り添うことができるようになったからだという。

「今、ひとりの歌手として生き直そうというところで、今までの時間は決して無駄じゃなかったと思います。ずっと知りたかった答えがやっとわかった気がします。ドアのカギ穴にキーをさして回したら、カチャって音がしてドアが開いたという感じかな」

 そこに到達するまでには時間もかかったし、不幸も重なった。別居して疎遠になってはいたが、自分を歌手の道に導いてくれた父親を亡くし、姉と弟も急逝。自身も7年前に乳がんを患った。

「’11 年に姉が亡くなった後は、母の介護は私の役目となりました。母はいま介護つきの高齢者用マンションに住んでいますが、老老介護って本当に大変なんです」

 慣れない介護と仕事に追われ、肉体的にも精神的にも疲弊した彼女は、自律神経に支障をきたしてしまったこともあった。

「母を精神的に支えなきゃいけないのはやはり娘ですから、2、3日に1回は顔を出しています。母は頭はしっかりしていますから、今はボケないように毎日、書写をやって、一生懸命に自分の好きな言葉を書いています」

 しかし、介護と仕事の毎日が続く中で一難去ってまた一難が……。

「1年前に目の前が急にまぶしくなって、文字が見づらくなりました。白内障でした。映画の話がなかったら、まだ手術していなかったでしょう。だって台本が読めないんだから、手術しないわけにいかないでしょ。おかげですごく見えるようになっちゃって、いいきっかけでした(笑い)」

 悲愴感は微塵もない。明るく笑い飛ばす園。

「実は、父が亡くなる2か月前に、私にこう言ったんです。“毬子(園の本名)、歌は毬子の天命だから歌うことを忘れちゃいけないよ”と……。父の死で気づくことも多く、大切なものが見えてきた気がします」

 と語る。そして、

「人って何歳になっても変われるんです。母だってデイサービスでリハビリを受けたら、トイレに行ってスッと立てるようになったし。いつでも再生できるんです」

 園の若さの秘訣は、何よりもこの前向きな姿勢にあるのだと納得。年末には、今年で姿を消す東京の『中野サンプラザ』で“新生3人娘”のコンサートも控えている。